中村礼子と伊藤華英の“明暗”

折山淑美
 2分8秒82。
 3月30日の女子背泳ぎ準決勝第2組で中村礼子(東京SC)が出した記録は、昨年のパンパシフィック選手権で彼女がマークした日本記録を0秒04上回る日本新記録だった。
「でもあいつは、目立たない奴で……」
 指導する平井伯昌コーチが苦笑する。
 レースは2004年アテネ五輪と05年世界選手権優勝者のカースティ・コベントリー(ジンバブエ)が最初から飛ばし、マーガレット・ホルザー(米国)が追う展開。150m手前で逆転したホルザーとコベントリーが並ぶようにゴール。タイムは2分7秒70と2分7秒78。激しいデッドヒートに目を奪われて、中村礼の日本新樹立にはしばらく気づかないほどだった。
 平井は言葉を重ねる。
「アテネ五輪の前はイギリスの選手二人が2分8秒台を出したけど、今回はコベントリーだけでなく、去年のパンパシで礼子が勝っているホルザーが7秒台できてるから……。なかなか手強いな、と思いますね。でも、礼子の今の力を全部出せば、2分7秒の後半から8秒頭のタイムは出せると思うので、まずそれをやって『来年はどうしようか』というふうにしていきたいんですが」

 この大会、中村礼は落ち着いていた。最初の100mでは予選から自己新を連発。決勝では1分0秒40の日本新で泳ぎ、59秒台に入ったナタリー・コフリン(米国)、ロール・マナドゥ(仏)に続き、激しい団子レースを制して銅メダルを獲得した。さらに専門外の50mでは5位に終わったものの、準決勝では中村真衣(JSS長岡)が持つ日本記録に0秒02まで迫る28秒58を出し、メダルの可能性さえうかがわせていたのだ。アジア大会出場を利用して、高いスピードレベルのまま冬期練習に入った効果が十分に反映された結果だったといえる。

大舞台でも落ち着き 中村礼の勝負強さ

 だが、平井はその好成績の反動を心配していた。
「礼子が得意にしているのは200mだから、100mでメダルを獲ってしまったら、『200mもいける、何とか頑張らなくてはいけない』という気持ちになってしまって緊張していたところがあると思うんですよ」
 そのため平井は準決勝では、入りの50mを抑えさせた。ゆっくり入って、残りの50m3回をハード、ハード、ハードで回るようにと。100mを1分2秒台で入りたいという中村礼の気持ちをうまく抑えるレースをさせたのだ。
「アテネ五輪パターンで、50m以降のラップを3回とも32秒台でそろえれば、2分8秒の後半から2分9秒頭のタイムは出る」
 そんな平井の思惑通り、中村礼は日本新をマークして決勝へと駒を進めたのだ。

 31日の決勝。優勝争いは準決勝と同じホルザーとコベントリーのスタートからの競り合いになり、ともに準決勝を上回るタイムで勝負が決した。優勝したホルザーは2分7秒16と、91年に樹立されたクリスティナ・エゲルゼキ(ハンガリー)の世界記録2分6秒62の更新の可能性さえ匂わせるものだった。
 その中でも中村礼は冷静に泳いだ。入りの50mは30秒50。その後は平井の「準決勝の泳ぎに少しずつ上乗せしていけば」という期待通りに32秒台でカバー。2分8秒54の日本新で銅メダルを獲得した。
 前との差は大きかったが、4位との差も1秒以上と、余裕のメダル獲得だった。
「決勝では落ち着いて泳ぎ、最後の25mを過ぎてからが勝負という、プラン通りのレースをできました。でも、1位が2分7秒16だから、世界はもう6秒台を出せるところまできているのだと思って……。これからはそこを意識していかなければいけないと思います」
 記録への大きな課題を自覚したこの大会、中村礼は3種目9レースで、自己新6回と自己ベストタイ1回を記録した。そんな姿を見て平井は「大きな大会でこれだけ落ち着いてやれたのは初めて。それは彼女にとっても自信になったと思います」と評価する。
 これまで彼女は、大会前になると不安に駆られ、そのままの精神状態で試合を迎えてしまうことが多かった。だがこの大会では、違う自分を見つけ出したともいえる。それは次へ向かうための大きな成果だ。

伊藤は苦闘 能力を出し切れない悔しさ

 もう一人、メダルを期待された伊藤華英(セントラルスポーツ)は、「水が手のひらにへばりついていないというか、水をモノにできていない感じで」との悩みから解放されないままの大会だった。
 最初の100mこそ、準決勝で自己記録を0秒01更新する1分0秒62を出して期待を抱かせたが、決勝ではラスト5mまで中村礼をリードしながらも最後にはかわされて5位に落ちた。そして狙っていた200mは、50m過ぎからジワジワと遅れ出して自己記録に1秒以上も及ばない2分10秒57でまたまた5位。高く評価されている素質を、今回も結果として表すことはできずに終わった。
「大きな大会で自分の力を出し切る難しさと感じました。持っているものが良いと言われても、出し切れなければ持っていないのと同じですから」
 厳しい自己評価をする伊藤の昨年の世界ランキングは中村礼に次ぐ2位。十分にメダルを狙える位置にいた。だが今回は、その立場に立って大会を迎えることの大変さを学ぶ結果になってしまった。
「レースでどうのこうのというより、調整の段階で納得できませんでしたから。メダルを獲るにはそれなりの執念がなければダメだと思いました。特に金メダルとなれば、命懸けでやらなければ獲れないと……」
 前回の世界選手権は、アテネ五輪代表落選の悔しさを晴らした満足感を持って臨んだが200mで4位。表彰台で銅メダルをかけてもらう中村礼の姿を見て、悔しさがフツフツと沸いてきた。
「だからこそ去年は『これでダメだったら死ぬ』というくらいの気持ちでやってたんです。でも今年は、去年と比べてその辺がダメだと思うんです。本当に悔しいですね」
 伊藤はこの敗戦で、大会やライバルのみならず、その前に控えている自分との戦いにも勝利しない限り、メダリストになる資格がないことを知ったのだ。

 中村礼子が感じる、着実に膨らみつつある自信と手応え、そして伊藤華英が再度味わった、大きな悔しさ。二人の北京ロードは、相反する結果から始まった。

<了>
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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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