福士に立ちはだかる“長距離界の女王”ディババ=Quest for Gold in Osaka

K Ken 中村

2005年世界選手権では5000mと1万m(写真)で2冠を達成したディババ。福士(写真右)にとっても強敵だ 【写真/陸上競技マガジン】

 今や長距離界の女王といってもよい存在となっているのが、エチオピアのティルネッシュ・ディババ。わずか18歳で2001年パリ世界選手権女子5000m(1974年欧州選手権で主要大会として実施されるようになった女子3000mは、95年の世界選手権から5000mに種目が変更となった)に優勝して注目を浴びた彼女は、その後も快進撃を続け、翌年のアテネ五輪では5000mで銅メダル、1万mで銀メダルを獲得。05年ヘルシンキ世界選手権では両種目で2冠を達成している。
 06年シーズンは、福岡で行われた世界クロスカントリー選手権のシニア女子ロングの部で2連覇を達成。トラックシーズンでヨーロッパで開催されたゴールデンリーグ全6戦中5戦を制し、ワールドアスレティックファイナルでは3000m2位、5000m優勝、ワールドカップも3000mで優勝する活躍を見せている。22歳になった彼女が臨む2007年大阪世界選手権では、当然5000m・1万mの2冠達成に挑戦していくはず。1万mでは日本期待の福士加代子(ワコール)の強敵となる選手だ。
 陸上競技マガジンで連載中の『Quest for the Gold』では2004年1月号で、最年少世界チャンピオンになったばかりのディババを、「エチオピアのプリンセス」として紹介している。1992年バルセロナ五輪女子1万mを制し、アフリカの女子で史上初の金メダリストとなったデラルツ・ツルをいとこにもつディババだが、意外なことに最初は陸上競技の道に進みたいという希望はなかった。そんな彼女が本格的に陸上へ取り組むようになったきっかけや、その急成長の過程が明かされている。
〜以下、『陸上競技マガジン』2004年1月号より転載〜

高校の入学登録に間に合わず“予定外”の陸上の道に

陸上を始めたきっかけは偶然の出来事だったが、メキメキと頭角を現した 【写真/陸上競技マガジン】

 アフリカの選手が長距離走に強いのは、彼らが幼少の頃から毎日、何キロもの道程を学校まで走って往復していたからだといわれる。しかし、ツルやハイレ・ゲブルセラシエ、ケネニサ・ベケレら、エチオピア陸上界にキラ星のように輝く選手たちと同郷のティルネッシュ・ディババ(愛称ティル)の場合は、少し事情が異なる。
「学校は、家から歩いて15分の場所にあったので、遅刻の恐れがない限り、走っていくことはありませんでした」とティル。そのティルが7歳の時、家族を、いや国民を仰天させるような出来事があった。いとこに当たるデラルツ・ツルが1992年バルセロナ五輪の女子1万mで、アフリカの女子陸上選手として初めて五輪の金メダルを獲得したのだ。
「デラルツが金メダルを取ったことには大変感銘を受けました。しかし、彼女が大きな犠牲を払ったことはよく知っているので、私にはとてもそんなまねはできないと思っていました」
 走ることによって身内が国民的英雄になったことは、普通の子どもなら、憧れを抱き、走り始めるきっかけにもなったであろう。しかし、ティルは違った。
「まだ7歳だったので、そのとき、陸上の道に進む気持ちはありませんでした。きちんと教育を受け、違う道で身を立てたいと思っていました」
 それから7年の歳月が過ぎ去って、2000年になってようやく彼女が走り始めるようになったのは、まったく偶然の出来事からだった。
 ティルは、学校が休みの時には、姉のエジガエホ(1982年生まれ。03年世界クロカン4キロ9位、世界選手権1万mは9位)といとこのベケルが住む首都・アディスアベバで過ごすことが多かった。そして、14歳で村の学校を卒業すると、進学するために、アディスアベバに引っ越した。
 ところが、高校の登録期間に間に合わず、ティルは入学することができなかった。村に帰れば嫁がなければならず、かといってベケルの家に1年も居候を決め込むわけにもいかないので、ティルは途方に暮れていた。
 そんな時、エジガエホに陸上を勧められたベケルが、ティルにも陸上の道に進むよう勧めてくれたのだった。「今日の私があるのは、姉のベケル(実はいとこであるが、ベケルを姉のように慕うティルは『ベケルはいとこではありません。私の姉です』と言っている)のおかげです。彼女が最初に陸上の道に進むことを勧めてくれましたし、その後もたびたび激励してくれました。姉のエジガエホにもいろいろ助けられました。初期には運動用具なども用意してくれましたし、練習につき合ってくれたのも彼女でした」

陸上クラブ入部の年に早くもエチオピア代表に

エチオピアの“プリンセス”から“女王”へと成長したディババ 【写真/陸上競技マガジン】

 01年、ティルが15歳のときに、いとこのツルが所属していた陸上クラブに入った。「陸上に没頭するには若すぎると周りは言っていたけれど、私は、どこまでやれるか試してみたかったのです」と彼女は当時を回想する。
 だが、遺伝的に恵まれたティルが頭角を現すのに、それほどの時間はかからなかった。アディスアベバで行われた01年世界クロカン選手権のエチオピア選考会で、ティルはジュニアの部で4位となり、国の代表に選ばれた。それは、彼女にとって初めての外国遠征だった。
 ベルギーのオステンドで開催された世界クロカン選手権は、ラドクリフ(英国)とゲテ・ワミ(エチオピア)がシニアの部で繰り広げた死闘が“伝説”となった大会でもあるが、ティルは、「寒くて泥だらけになったことが印象に残っています」と振り返る。最後の600mで4人の先頭集団に置いて行かれてしまったが、ティルはジュニアの部で5位入賞を果たしている。
 ティルの進歩は目覚しかった。1年後、ダブリンで開催された世界クロカン選手権ジュニアの部では、世界クロカンで最も若いエチオピア人メダリストとなった。
 残り250m地点、4人の先頭集団からケニアのビオレット・キボウットがスパートしたとき、このディフェンディング・チャンピオンにただ1人ついていったのがディババだった。
 最後はどうしても距離を詰められなかったが、ジュニアの部で堂々の2位。「この結果で自信がつきましたし、よりよい結果を出したいと思いました」と、翌年の優勝を心に誓った。
 その後、ロード、そしてトラックにも進出したティルは、02年4月のカールスバッド5キロで、道路世界最高記録を樹立したディーナ・ドロシン(米国)に次いで15分19秒で2位となった。
 その後、米国で3000m(8分42秒57)と5000m(15分13秒78で優勝)のトラックレースを走ったティルは、ジャマイカのキングストンで開催された世界ジュニア選手権の5000mに出場した。
 彼女は年上のチームメート、メセレット・デファールとともに、最後の1周でペースを上げたケニアのビビアン・チェルイヨットについていった。ホームストレートでチームメートのラストスパートに屈したものの、デファールに次いで銀メダルを獲得した。
 さらに欧州に舞台を移したティルは、ブルュッセルの3000mで8分41秒86、ロンドンの5000mで15分04秒54、そしてベルリンの5000mでは14分43秒30と自己新を連発した。その年の11月、国際千葉駅伝のために来日したティルは、4区で15分27秒で区間賞を獲得し、エチオピアの優勝に貢献している。

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著者プロフィール

三重県生まれ。カリフォルニア大学大学院物理学部博士課程修了。ATFS(世界陸上競技統計者協会)会員。IAAF(国際陸上競技連盟)出版物、Osaka2007、「陸上競技マガジン」「月刊陸上競技」などの媒体において日英両語で精力的な執筆活動の傍ら「Track and Field News」「Athletics International」「Running Stats」など欧米雑誌の通信員も務める。06年世界クロカン福岡大会報道部を経て、07年大阪世界陸上プレス・チーフ代理を務める。15回の世界陸上、8回の欧州選手権などメジャー大会に神出鬼没。

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