野茂を導いたもう一人の“パイオニア”
無給でドジャースへ
山本昌への影響
朝4時半には出勤し、夜遅くまでオフィスで黙々と働く毎日。体調を気遣う夫人に生原は「日本人である自分が実力社会の米国でやっていくためには、(球団に)ほかの人間より役に立つと思われなければダメなんだ」と語り、その勤務スタイルを変えようとはしなかった。そんな熱心で誠実な仕事ぶりが認められて、生原はやがてピーターの秘書、さらにオーナー補佐・国際担当の要職に就き、ピーターがオーナー業とともに取り組んでいた野球の「国際化」の使者として世界中を飛び回った。
巨人や中日がベロビーチでキャンプを行った際にはその世話役を務め、78年に日本で本格的なメジャーリーグ中継が始まった当時は、解説者として放送ブースにも座り、母国でのメジャーリーグ認知に尽力した。また、日本の球団からドジャース傘下のマイナーに「武者修行」で派遣された若い選手たちのコーチ役も務めた。その薫陶を受けた後、最多勝投手にまで上り詰めたのが山本昌(中日)である。
野茂と出会うも…
2002年、生原は日米野球界の架け橋となった生前の功績が認められて日本の野球殿堂に選ばれたが、その表彰式にはすでにドジャースの経営から身を引いていたピーターも米国から駆けつけた。いま、生原はロサンゼルス郊外のホーリークロス墓地で、ウォルターの隣に並び、静かに眠っている。
<了>
※次回は2月5日に掲載予定です。
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