チームをひとつにしたFC岐阜の原点

五味幹男

「J昇格」への苦闘

 2007年12月3日、Jリーグ理事会により加盟が認められ、FC岐阜のJ2参入が正式に承認された。05年に「J昇格」の目標を掲げてから3年。J2昇格条件の改定(JFL=日本フットボールリーグの4位以内。06年までは同2位以内が条件)があり、さらに選手への給料未払い問題など財政面等の課題もあらわになったが、当時、東海社会人リーグ2部にいたクラブの最短期間でのJ昇格は快挙といって差し支えない。
 もちろん、順調の中には苦労もあった。特に07年シーズンのJFLはFC岐阜にとって、非常にタフな時間の連続だった。

 東海1部からJFLへの昇格が決まった時点で、その戦いが厳しいものになるだろうと思っていた選手の1人が、吉田康弘だ。吉田は明治大学卒業後、1993年に鹿島アントラーズに入団。ポジショニングの良さと優れた判断力で「ジーコの後継者」と呼ばれた。鹿島ではスタメン定着に至らなかったが、95年に清水エスパルスに移籍すると、サンフレッチェ広島時代(96〜99年)も含め、攻守の要のリンクマンとしてチームには欠かせない存在となった。そして06年、同じ年の森山泰行と一緒に仕事ができる、新しいクラブでこれまでの経験を生かしてみたいという思いから、FC岐阜に入団した。
「開幕8試合で7勝1分け。正直、これはうまくいき過ぎだと思いました。もちろんJを目指すのだから勝利も大事だし、スタートダッシュという意味では申し分ない。でも、内容が伴っていなかった。社会人リーグと違ってJFLは長丁場。シーズンを通してコンスタントに力を出すことは難しいだろうと感じていました」

 吉田の予感は現実となった。14節にYKK APと引き分けると、15節からは7試合で5敗を喫した。
「もちろんJから来た選手は自信もあったはずです。でも、クラブとしてJFLで戦うのは初めてのこと。そこでは何が起こっても不思議ではないんです。そして案の定、勝てなくなった。ひとつの歯車が狂ったときに、すぐに立て直すことができなかったんです。チームの中で温度差が出始めたのもこの頃でした」

 温度差とは「負け」に対する個々のとらえ方の違いと言い換えられる。たまたま運悪く負けたと思うのか、またすぐに勝てるようになると思うのか、あるいは、現実としてしっかり受け止めるのか。チームが開幕から好調をキープしてきた間、吉田は試合にほとんど出場していなかったが、その分、ピッチ外でできることを全力でやろうという認識で、自分なりにチーム全体を俯瞰(ふかん)していた。勝てなくなったチームを見て、吉田は「これが本来の姿かな」と思った。

「どこかで甘く見ていた」

「前半は楽勝。後半はまるっきりダメ。はっきりいってなめていました」
 当時の心境をこう語るのは不動のセンターバックとして堅守を支えた深津康太だ。深津は流通経済大柏高校から03年に名古屋グランパスエイトに入団。昨年同校を高校選手権制覇に導いた本田裕一郎監督が指導した第1期生に当たる。名古屋では出場機会に恵まれなかったが、05年に移籍した水戸ホーリーホックでは主力として39試合に出場した。その後、名古屋、柏レイソルを経て、07年からFC岐阜でプレー。名古屋時代には森山泰行に大きな影響を受けている。
「水戸でそれなりに経験を積んできていましたので、どこかで甘く見ていたところはあると思います。上から来たという意識も当時はまだありましたし、JFLからJ2の昇格も難しくないだろうと思っていました」

 そう思っていたのはGKの日野優も同じだった。日野はガンバ大阪から06年末に期限付きで移籍してきた。直後の全国地域リーグ決勝大会からゴールマウスを守り、07年もフル出場を果たしている。
「やる前はJFLでどこまで通用するのかという思いもありましたけど、開幕戦で勝利して、どこか調子に乗ってしまった面はあったと思います。個人的には自分のところでボールを止めれば負けないわけですから、勝てない焦りはありませんでした。でも、チームとして戦えていない時期があったとは思います」

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著者プロフィール

1974年千葉県生まれ。千葉大学工学部卒業後、会社員を経てフリーランスライター。「人間の表現」を基点として、サッカーを中心に幅広くスポーツを取材している。著書に『日系二世のNBA』(情報センター出版局)、『サッカープレー革命』『サッカートレーニング革命』(共にカンゼン)がある

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