勝負の17年へ、内田篤人に今必要なこと 復帰後も続くスタメン確保への険しい道

元川悦子

ELザルツブルク戦で1年9カ月ぶりに復帰

内田篤人は12月8日、ELのザルツブルク戦で1年9カ月ぶりに復帰した 【写真:アフロ】

 凍てつくような寒さとなった現地時間12月8日の夜、ザルツブルクの本拠地で行われたUEFA(欧州サッカー連盟)ヨーロッパリーグ(EL)I組最終節。すでに決勝トーナメント進出を決めていたシャルケのマルクス・バインツィール監督は、ナビル・ベンタレブ、マックス・マイヤーら主力を温存。出場機会の少ない選手にチャンスを与えた。

 戦前、右膝の負傷で2015年3月に行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦のレアル・マドリー戦から、1年9カ月も公式戦から遠ざかっていた内田篤人も戦線復帰する可能性が高まり、国内外から注目を集めていた。

 試合はザルツブルクが前半22分に先制し、シャルケは劣勢を強いられた。指揮官が後半に入ってアレッサンドロ・シェブフ、シドニー・サムといった攻撃的なカードを立て続けに切ったのも、想定内の采配だった。が、出番があると信じて準備を続けてきた内田は、刻一刻と減っていく時間に少なからず不安と焦りを感じたという。

「ぶっちゃけ、20〜30分(出る)という話もチラホラあったのに、だんだん(時間が)少なくなっていったので、今日はないかなと思うくらいだった。その時間帯のシャルケは急に内容がよくなったし、俺が監督なら代えないなと思った」

 だがバインツィール監督は、この男の存在を忘れたわけではなかった。後半38分、背番号22の投入をついに決断。敵地に押し寄せた1万人ほどの熱狂的サポーターも「ウシダ・オオオー、ウシダ・オオオー」の大合唱を繰り返す。経験豊富な右サイドバックの復活に、みな喜びひとしおだったに違いない。

短い出場ながら存在感を示した内田

試合後、南野拓実(右)とあいさつする内田 【Getty Images】

 内田の登場と同時に、チームは3−4−1−2から4−4−2に変更。背番号22は攻守のバランスを考えながら慎重にポジションを取った。プレー時間は10分足らずだったが、後半43分の南野拓実の決定的シュートを勇敢にブロックするなど、粘り強い守備で存在感を示した。「拓実は完全に頭を下げていたので、俺が動かなきゃぶつかると思って、股だけ気を付けていきました」と内田は老獪(ろうかい)な戦術眼の一端を披露した。

 最終的に後半アディショナルタイム、シャルケはヨシプ・ラドシェビッチのゴールで2失点目を喫する。内田自身も抜け出したディアディエ・サマセクを止め切れなかった。「最後は1−1か2−0かという賭けのプレーだった。仲間を待とうか、削っちゃおうか迷ったけれど、まあしょうがないね」と本人は普段通りのサバサバした言い回しで敗戦の悔しさをにじませたが、パフォーマンス自体、大きなブランクは感じさせなかった。そこまでの状態に引き上げるまで、内田は本当に紆余曲折を強いられたのだ。

「1年9カ月やってないアスリートって引退がかかっているからね。シャルケのドクターにも『俺が復帰できるとは思わなかった』と言われたけれど、そういうケガと手術だった。膝蓋(しつがい)じん帯っていう人間の一番強い部分。そこが骨化するっていうのは普通にはないこと。手術する決断をしたけど、なかなか治らない。それですごい迷った時期があった。今年鹿島に帰っていたころかな。その時が一番きつかった」

復帰までの苦しく長い道のり

 15年6月の手術後、復帰時期はズルズルとのびていった。本人は当初、15年中にピッチに戻りたいと考えていたが、それがかなわないまま16年に突入する。1月末にはチームの全体練習に合流。2月にベンチ入りするのではないかという期待が高まった。しかし、再び痛みと右膝に違和感が出て急きょ帰国。そこから7月頭まで鹿島アントラーズに戻ってリハビリに専念することになった。

 5月下旬に日本代表の欧州組合宿に参加した際、内田の足は信じられないほど細くなっていた。これには、多くのメディア関係者から一様に驚きの声が上がった。彼はゼロから体を作り直さなければならないところまで追い込まれていたのだ。

「今は手術したところが痛いんじゃなくて、その周りなんで。足を踏み込んだりしないと痛いし、筋力をつけるのも刺激が入ってないと難しい状態。サッカー選手の2年をムダにするって、普通の社会人で考えたらもう10年くらい何もしていないくらいなんで、これを取り返すのは大変だけれど、やらなきゃいけないから。俺がここで治らないって言ったら終わっちゃうから、しっかり復活したいと思います」と、この時の内田は自らに言い聞かせるように語気を強めた。そこから6カ月あまりを経て、たどり着いたザルツブルク戦。ドイツに戻ってからも一進一退の状態が続き、本当に綱渡りでここまで来たことがよく分かる。

「ホントによく泣いたよって感じ」と本人も苦笑したが、それは冗談ではなかっただろう。想像を絶する苦しみを乗り越えたのだから、早くピッチにコンスタントに立ってもらいたい……。それは日本中のサッカー関係者の強い願いに他ならない。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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