猛虎のために尽力した中村GMの生涯 驚くしかなかった突然の訃報

菅野徹

3連敗以上の大きな衝撃

23日に急死した阪神・中村GM 【写真は共同】

 阪神タイガースの中村勝広ゼネラルマネージャー(GM)が亡くなった。

 私は、23日の試合後、ネットの記事でそれを知った。その時刻を見ると、試合中にはすでに配信されていたようだ。この日阪神は、9回表、土壇場で巨人に追いついたものの、直後にサヨナラ負け。これで優勝を争う東京ヤクルト、巨人を相手に3連敗となり、ショックに沈んでいた。そこに飛び込んできた突然の訃報は、さらに大きな衝撃だった。66歳という若さ。精力的な活動が伝えられていただけに、驚くことしかできなかった。

 2012年秋、球団初のGMに就任。中村GMがどこまでの責任を負い、権限を持っていたのかは、わからなかった。正直に言えば、その実績は「功罪相なかば」していたと思う。メディアやファンから、編成について叩かれたこともあった。

 それでも、14年シーズンでは、打点王のゴメスとセーブ王・呉昇桓というピンポイント補強に成功した。MLB帰りの福留孝介や西岡剛は、ピーク時の成績からは遠いが、チームの精神的支柱として、若い選手たちをまとめる役目を担っている。近年のドラフトでは、「素質型の高校生」を指名するようになった。それらが結実し、昨年の日本シリーズ進出や、今年の優勝争いにつながっている。

現役時代は地味な「守備の人」

 私にとって中村勝広という人は、初めて知った阪神の選手の一人だ。子供心に「巨人は強すぎるから、阪神を応援しよう」と決めたのが1975年。当時中村はプロ4年目で、「1番・二塁」でレギュラー。俊敏な「守備の人」だったが、線が細い割にはパンチ力があった。この年は全130試合に出場し、打率2割8分、16本塁打、43打点と、いずれもキャリア最高の成績を残した。

 78年から徐々に出場数が減り、80年には早稲田大学の後輩である二塁手・岡田彰布が入団、81年からは兼任コーチに。翌82年には現役を引退した。故障して持ち味のスピードが生かせなくなったこともあったが、75年以外は地味な選手生活だった。引退後はすぐに2軍監督に就任。85年の優勝時も2軍監督だったので、あまり表には出ず、やっぱり地味だった。雌伏の時を経て、90年に1軍の監督に就任した。


 地味な存在の中村だったが、監督になることは既定路線。早稲田大時代は主将を務めている。阪神の監督は、伝統的に「大学出の内野手」がとても多い。2リーグ分立以後なら古い順に、松木謙治郎、後藤次男、吉田義男、安藤統夫、中村勝広、岡田彰布、和田豊といる。しかも吉田と和田以外は東京六大学出身だ。

 彼らが「長期政権」になることが多いのも特徴的。吉田は3期で合計8年、中村は単期最長の6年、岡田と松木が各5年(ただし松木は1リーグ制の頃にも2年間やっている)など。トータル期間で言うと、66年のうち33年となり、ちょうど半分が「大学出の内野手監督」だったことになる。

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著者プロフィール

フリーライター。野球、鉄道、広告コピーなどを中心に雑誌等で執筆中。旧筆名は「鳴尾浜トラオ」。阪神タイガース評論家を自称する。ブログ「自称阪神タイガース評論家」は2003年12月からほぼ毎朝更新中(ただし10〜12年は、阪神タイガース公式携帯サイトにて「トラオの視点」として連載)。著書に『虎暮らし』(2008年/扶桑社)がある。

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