猛虎のために尽力した中村GMの生涯 驚くしかなかった突然の訃報

菅野徹

大胆なタクトに選手が応えた92年

92年には新庄(右)、亀山ら若手を起用し、低迷していたチームを2位に躍進させた 【写真は共同】

 さて中村監督時代の6年間だが、85年の優勝、日本一から5年のうちに、威光は地に落ち、すでに「万年最下位」に近い状態になっていた。ただ3年目の92年、突然優勝争いをして光り輝いた。そのおかげで中村時代は、6年の長期政権になったと言える。

 真弓明信、岡田、平田勝男、木戸克彦らV戦士はすでに控えにまわり、新星の亀山努、新庄剛志が甲子園の芝の上を、土の上を伸び伸びと飛び跳ねた。八木裕は思い切りの良いスイングで本塁打を量産し、いぶし銀・和田豊のバットコントロールが冴え、オマリーとパチョレックが打ちまくった。

 久慈照嘉と山田勝彦は守りで魅せた。投手では、仲田幸司がエースの活躍、湯舟敏郎、中込伸、野田浩司らがローテーションをまわし、接戦のラストは田村勤が締めた。中村の大胆なタクトに、若い選手たちがハツラツと応えた1年だった。

 しかし最後の最後まで優勝争いを演じたものの、野村克也監督率いるヤクルトに覇権を奪われ、最終順位は巨人と同率2位に終わった。中村監督にとっては、惜しい、悔しいシーズンだった。くしくもセ・リーグの順位やゲーム差は、今シーズン現時点のものに非常に似ている。不思議な縁を感じないわけにはいかない。

3年連続優勝争いを続けた中村GM体制

 GMとして阪神に復帰したのは、それからちょうど20年が経った12年秋。和田新監督の下、5位に終わったシーズンを受けてのことだった。その後3年間、少なくともチームは優勝争いをしている。それは間違いなく事実だ。

 ひょっとしたら、激務がたたったのかもしれない。今この時期、おそらく中村GMは多忙を極めていただろう。大混戦のペナントレースをフォローし、フロントとの間で来季の体制や戦力の構想を練り、そのために現場の調査をする。およそ1カ月後に迫ったドラフト会議の準備、外国人の去就の決定、戦力外にする選手の選定……。元アスリートだけに体力はある。でも66歳といえば、会社員ならすでに定年退職している年齢だ。

 球団を責めるつもりはまったくない。しかし、もしGMにかかる負担が大きすぎたかもしれないと、反省すべき点があったのなら、今後は負荷の分散を考えて人員配置してほしい。

 最後に。スマートな選手として、熱い指導者として、冷静なGMとして、長期にわたって愛する阪神タイガースのために尽力された中村勝広さんに、哀悼と感謝の意を表します。どうか安らかに。ありがとうございました。

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著者プロフィール

フリーライター。野球、鉄道、広告コピーなどを中心に雑誌等で執筆中。旧筆名は「鳴尾浜トラオ」。阪神タイガース評論家を自称する。ブログ「自称阪神タイガース評論家」は2003年12月からほぼ毎朝更新中(ただし10〜12年は、阪神タイガース公式携帯サイトにて「トラオの視点」として連載)。著書に『虎暮らし』(2008年/扶桑社)がある。

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