メッシとグアルディオラの再会 CL準決勝で実現する師弟対決

メッシとグアルディオラの信頼関係

08年から4年に渡りバルセロナで共に戦ったメッシ(手前)とグアルディオラ(奥)。深い信頼関係が2人の間には存在する 【写真:ロイター/アフロ】

「グアルディオラがやって来た時、僕らは2年間にわたって何も勝ち取ることができず、精神的に沈んでいた。ロッカールームの崩壊した様子を目の当たりにした彼は独自のやり方で僕らにメッセージを送り、信頼を示すことで全てを変えていく手助けをしてくれた。明確なアイデアを持つ彼は、あらゆるものに正面から対峙(たいじ)できる度胸を持った監督だった」

 ジョゼップ・グアルディオラがバルセロナを率いた最後の年、リオネル・メッシは自身の表情がテレビカメラの標的となることを嫌い、指揮官の退任会見に出席することができなかった。だがあれから数年が経過した現在、彼はようやくグアルディオラがトップチームの監督に就任し、チームを変えていった2008年当時を客観的に振り返ることができるようになった。

 冒頭のコメントは、アルゼンチンのテレビ局のインタビューの中でメッシが発したものだ。同インタビューの内容をつづった『メッシ』の著者であり、『グアルディオラ、他とは異なる勝ち方』の執筆を通してグアルディオラとも深い親交を築いたジャーナリストのギジェム・バラゲによれば、以前バルセロナを離れたグアルディオラにメッシに対する思いを聴いた際、彼はこう言ったそうだ。

 「今、私はミュンヘンで暮らしている。彼が私を必要とした際は、いつでもここにいると伝えてくれ」

バルセロナで過ごした濃密な日々

バルセロナは2人が生み出した相乗効果によって史上最高のフットボールを実現し、あらゆるタイトルを獲り尽くした 【写真:ロイター/アフロ】

 トップチームの監督に就任した当初、グアルディオラはメッシの性格を理解するのに苦労し、親友でもある相談役のマネル・エスティアルテにたびたび意見を請うことになった。水球界の伝説的選手だったエスティアルテは、プレシーズン合宿の初期に新監督に対してあいさつすらしなかったメッシを見て、彼がほどなく始まる北京五輪への出場を望んでいることを見抜いたという。

 当時バルセロナは選手の五輪招集をめぐる裁判に勝利し、アルゼンチンサッカー協会に対してメッシの招集を拒否したばかりだった。そこでグアルディオラは柔軟な対応を見せ、メッシの五輪出場を許可するようジョアン・ラポルタ会長を説き伏せた。こうして中国にて念願の金メダルを獲得したメッシは指揮官に信頼を置くようになり、以降フットボール史に残る素晴らしい数年間をわれわれに提供することになったのである。

 あの4年間、バルセロナはグアルディオラとメッシが生み出した相乗効果によって史上最高のフットボールを実現し、獲得可能なあらゆるタイトルを獲り尽くした。10年のFIFA(国際サッカー連盟)バロンドールでは、上位3名をバルセロナ勢(メッシ、アンドレス・イニエスタ、シャビ)で独占する快挙も成し遂げた。

 だがバラゲの著書につづられたグアルディオラの言葉からは、彼らがバルセロナで過ごした激しく、濃密で、悲哀に満ちた忘れられない日々に築いた強い絆も、結局は2人が共に過ごした4年間しか続くことはなく、今となっては取り戻すことができない過去となってしまった印象を受ける。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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