守備のスペシャリスト 武岡優斗が歩むセカンドキャリア(後編)

川崎フロンターレ
チーム・協会

【©KAWASAKI FRONTALE】

2009年に鳥栖からプロキャリアをスタートさせた武岡優斗さんは、5クラブを渡り歩き、2020年に山口で現役生活を引退した。そのなかで2014年から2018年と最も長い期間を過ごしたクラブがフロンターレである。DFとして強い対人でスタジアムを湧かせ、守備のスペシャリストとして何度もチームに貢献した姿は、今でもサポーターの記憶に深く刻まれているだろう。そんな武岡さんがセカンドキャリアに選んだのは現在、多くのJリーグクラブを含めたスポーツチームとメディカルパートナー契約を締結しているセルソース株式会社という再生医療関連事業の企業だった。どのようにして、この道へと進んでいったのか──。インタビュー前編と後編で武岡さんの歩みに迫る。

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「やっぱりサッカーからは離れられへんのかな」

2016年、2017年と度重なる怪我に悩まされたが、常に自分と向き合って這い上がってきた 【©KAWASAKI FRONTALE】

──武岡さんも怪我に悩まされていたと思います。私も複数回怪我で膝を手術して、なかなか前に進むことができない日々を送っていました。それでも選手たちは怪我をしたことは前向きなことではないけれども『怪我をして成長することもできる』と前向きにリハビリに取り組む姿は本当に凄いなと感じています。

「そう思うしかないんです。正直、怪我をしていいことなんてないと僕は思っていますけど、プラスなことも多少はあるんです。僕は手術直後に普通に歩けない、数センチの段差で足が上がらない。今まで当たり前にできていたことが当たり前ではなくなりました。そのへんの感覚が変わるので、色んなことに感謝をできるようになりました。だから怪我をしてよかったと思えることはないけど、振り返ったときに笑って話せる着地点にもっていくことが大事なんじゃないかなと思います。怪我という出来事がなければ今、ここに座って話すことができていないと思いますし、よかったとは言わないけど、自分の人生を左右した出来事でしたね。失ったものは多いけど与えてくれたものもありますから」

──それでもサッカーは嫌いになれないですよね。

「そうですね。手術をする度に辞めようと思っていたけど、サッカーをやっている自分がいました。みんなそんな感じなんじゃないかな。根本はサッカーが好きという思いから始まっていますからね」

──その思いをもっているから違う形でサッカー界に戻ってきたのだと思います。

「だからビックリしましたよ(笑)。それこそサッカーから離れることを決めていたのに、セルソースではたまたま僕の入社前からいろんなJリーグクラブとのメディカルパートナー契約締結が続いていました。僕が入社をしてから初めて担当したメディカルパートナー契約も古巣の鳥栖だったので『ここで絡む?』って思いましたよ(笑)。まさか、このような形でプロキャリアをスタートさせた鳥栖と絡むことがあるんだなって(笑)。だから思ったんです。『やっぱりサッカーからは離れられへんのかな』って(笑)」

──やっぱり武岡さんはサッカーに関わっていてほしいなと思います。

「そう思ってくれている人は多いですし、思っているよりも応援してくれている人も多いなと感じています。引退をしたときは想像以上に反響があってビックリしました。有り難いことにフロンターレの引退セレモニーの2週間後には横浜FCでも引退セレモニーをさせてもらいました。思っていたよりも爪痕を残していたということですかね(笑)」

シンプルにフロンターレが好きなんです

フロンターレでの武岡優斗さんのプレーはサポーターの記憶に深く刻まれている 【©KAWASAKI FRONTALE】

──ここまで色んな話を聞かせていただきましたが、フロンターレでの過ごした日々はどのような時間でしたか?

「濃かったですね。加入した2014年はJ1で3位になったシーズンの翌年でフロンターレも強かったタイミングですし、トップクラブに飛び込んでどうなるかなというところでした。実際、想像以上に壁が高かったです。折れに折れましたよ(笑)。もうグラウンドに行きたくないというレベルで。当時は毎日、スタメンかスタメンじゃない組で分かれていたので自分の立ち位置が分かります。相手にするのは得点王や日本代表、ブラジル人選手…。ノイローゼですよ(笑)。サンドバッグのように殴り続けられて。だから1年目は地獄でした。早く1年終わらへんかなって…(笑)。

そもそもちゃんとSBをやったの初めてだったのでゼロからのスタートでした。だからできるはずはないので、目の前の選手を潰すという判断に至りました。毎日レナトをめちゃくちゃにしていました(笑)。削ったりするのも日常茶飯事(笑)。そうじゃないと止めることができなかったんです。それで1年目の終わりに少しだけ試合に出ることができました。もうそのときは移籍の許可をもらっていたのでシーズンが終わったら移籍しようと思っていたのですが、残ることになって2015年を迎えました」

──残ってくれたことで、2015年はさらにチームの力になってくれたと思います。

「みんなそう言ってくれます。2015年はキャンプが終わって週明けの練習でまさかの3バックの右をやることになったんです。それでシーズンほぼ試合に出て日本代表候補になると。意味の分からない1年でした(笑)。目の前のことを必死にやっていたら対人が強くなって、今ではレナトと1対1をしてきたから対人が強くなったと美談になっていますけど、そんな美談じゃないですからね(笑)。本当に必死でしたから。自分は何も変わっていないけど、周りの評価が上がっていた印象があります。本当に振り返ると色んなことが出てくるくらい濃かった。2017年は奇跡の優勝も経験しましたし、あの瞬間は一生忘れられないと思います。ケンゴさん(中村憲剛)が泣き崩れるシーンなんて、もう二度と見ることはできないと思いますし、特別な瞬間でした」

──では最後に、武岡さんにとってフロンターレとはどんな存在か教えてください。

「プロ生活12年のなかで1番長く在籍したクラブです。フロンターレを離れてから『あのクラブは凄かった』と感じます。これは新井とも(新井章太/現・千葉)とも話したことでもありますが、シンプルにフロンターレが好きなんです。それこそ離れてから毎週のようにサポーターのような感覚でフロンターレの試合を見ていました。もちろん今でもフロンターレの試合を1番見るし、夫婦でチャントも歌うことができます。めちゃくちゃフロンターレが好きです。サッカー人生のなかで沢山ことを経験させてもらったし『サッカー選手 武岡優斗』の価値を引き上げてくれたのもフロンターレです。すごく感謝しています。何よりも僕はフロンターレがシンプルに大好きです!」

(取材:高澤真輝)

■PROFILE

武岡優斗(たけおか・ゆうと)

【©KAWASAKI FRONTALE】

2009年に国士舘大学から鳥栖に入団し、プロキャリアをスタート。その後、横浜FCを経て2014年に加入したフロンターレでJ1デビューを果たすと、2017年、2018年にはリーグ2連覇を経験。2019年は甲府、2020年は山口でプレーした。フロンターレ在籍時は縦への突破と対人戦の強さが武器に等々力を沸かせ、日本代表候補に選出もされた。現在はセルソース株式会社で医療面からJリーグを盛り上げている。
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著者プロフィール

神奈川県川崎市をホームタウンとし、1997年にJリーグ加盟を目指してプロ化。J1での年間2位3回、カップ戦での準優勝5回など、あと一歩のところでタイトルを逃し続けてきたことから「シルバーコレクター」と呼ばれることもあったが、クラブ創設21年目となる2017年に明治安田生命J1リーグ初優勝を果たすと、2023年までに7つのタイトルを獲得。ピッチ外でのホームタウン活動にも力を入れており、Jリーグ観戦者調査では10年連続(2010-2019)で地域貢献度No.1の評価を受けている。

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