守備のスペシャリスト 武岡優斗が歩むセカンドキャリア(前編)
【© KAWASAKI FRONTALE】
現役引退してからの自問自答
日本代表候補に選出された2015年 【© KAWASAKI FRONTALE】
「振り返ると引退を決めたのが2020年のシーズン開幕する1週間前くらいでした。その時点では何をやる、何をやりたいというのは何も決まっていませんでしたし、何も自分のなかでは考えていない状態で引退を決めました。あのとき決めていたのはサッカー界に残らないということだけ。だから引退してから『何をしよう…』『何をやりたいんだろう…』という自問自答が毎日ように続いていきました(笑)」
──その当時、答えは出たのでしょうか。
「全然出なかったですね。電話で知り合いに話すこともありましたけど、何も決まらないまま過ごし続けていました…。本当に毎日、奥さんと『どうしよう』って(笑)。だからノープランでした(笑)」
──そこからセカンドキャリアの道をセルソース株式会社に選びました。
「悩んでいるなかで、2人の人間から同じ人を紹介されたんです。その人は人材会社を経営していて、僕と同い年。しかも流通経済大学でサッカーをしていた経験があって、お互いに名前を知っている間柄でした。その彼がセルソースを紹介してくれたんです」
──そうだったんですね。武岡さんはどの職業でも活躍できるような性格ですよね。
「そんなことないですよ(笑)。サッカー界はクセの強い人が集まっていますから(笑)。特に僕は現役時代、暴れん坊でした(笑)。ピッチで無茶苦茶してたなぁ。1対1で負けないために(笑)。あと、僕は引退してからのほうがサッカーを見ていますけど、現役に戻りたい気持ちも湧いてこないんですよね。フロンターレの試合を見ていて『あそこに俺がいたんか…』っていう感情にはなりますけど(笑)」
常勝フロンターレの初期
1対1の強さとスピードが一級品。たとえユニフォームを引っ張られようとも倒れることはない気迫を見せていた 【© KAWASAKI FRONTALE】
「常勝フロンターレの初期に僕がいられたのは有り難いですし、今でも不思議な感覚です。あそこに自分がいられたのは大きな財産だし、フロンターレが強くなればなるほど『あそこに5年いました』と言うだけで周りの人は『えー』って言ってくれます(笑)。それに僕がいた時代は2014年から2016年の八宏さん(風間八宏監督/2012年~2016年)とオニさん(鬼木達監督/2017年~)の2017年と2018年。そういう意味で僕はいい時期をかじっているんですよ(笑)。みんな言いますけど八宏さんの指導を受けるとサッカー人生が変わる。それを身をもって経験をしているので、いい時期にいることができました。でも練習中から無茶苦茶していましたよ(笑)」
──無茶苦茶ですか?(笑)
「はい(笑)。無茶苦茶やらないと生き残れない世界ですから。そこで生き残るためには何をどうするかを考えてやることで2015年に日本代表候補に入ることができました。ただ、それが発表されたあとに怪我とかもあったけど、薬とアドレナリンと精神力でやっていました。当時はヨシトさん(大久保嘉人)もいたし、ちょっとの痛みでも休まない姿を目の前で見ています。サッカーはピッチに立つのが1番ですし、今は休むタイミングじゃないと思ってやっていたのを覚えています」
──現役引退から翌年の2021年に引退セレモニーにも参加しました。
「フロンターレを去るときにOB選手が行事ごとに参加するのは分かっていたので、そういう形で戻ることができればいいなと思い描いていました。引退セレモニーも『引退する』とスタッフの天野さんに連絡をしたら『せっかくだからやろうよ』と言ってくれて動き始めたんです。あのとき天野さんに連絡をしなければ、引退セレモニーはなかったと思います。所属していた5年間を通してレギュラーではなかったし、膝も2回手術して全然プレーできない時期もありました。だから正直、そういうのは全くないだろうなと思っていたのでうれしかったです」
──引退セレモニーは竹馬に登場しましたよね。
「あれは当日に竹馬を控室にもってこられて『これ乗って入場ね』って言われて、挨拶の時間も『2分ね』って言われました(笑)。でも、いつもフロンターレはだいたいそんな感じです。だから5年間いて感じるのが、他のクラブと比べていい意味で特殊だということ。フロンターレを離れてから、このクラブがどれだけイベントや地域貢献活動に力を入れているかが改めて分かりましたし、すごいなと感じました。僕がフロンターレにいた頃は、14番の選手(中村憲剛)が喜んでやっていたので(笑)。それを見ているから不思議な感覚にはならなかったです。あのクラブはそういうものという感じでした。見ていると年々アップデートされていますよね(笑)。無茶苦茶ですよ(笑)」
「少しでも多くの時間をピッチに立って、少しでも長く選手でいてほしい」(武岡さん)
セルソース株式会社では「再生医療等安全性確保法」のもと、厚生労働省関東信越厚生局より特定細胞加工物製造許可を受けた「セルソース再生医療センター」にて、細胞等の加工を行っている 【©CellSource】
「どうなんでしょう。感じているのは、サッカー選手は準備をしてくれたものでやりますよね。例えば遠征に行くのも集合時間を伝えられて、移動の飛行機や新幹線のチケットも用意してくれています。まず、社会はそこから違うんです(笑)。毎日クラブハウスに行って、第三者と何かを合わせることはほとんどなかったし、打ち合わせもない。毎日当たり前のように練習に行って帰るだけでした。その辺は仕事を始めた当初は物差しがズレていました(笑)」
──そういう意味では仕事をして色んな刺激があったのではないでしょうか。
「大変でした(笑)。他人とスケジュールをシェアしたことないですし、全部が全部自己責任です。そもそも論が違うというか、最初は全然慣れなかったです。今でも慣れていないですけど(笑)」
──セルソース株式会社ではどのような仕事をしているのでしょうか。
「主に治癒促進の効果が期待される同社の技術をJリーグのクラブなど、アスリートにプレゼンテーションする営業をしています。あとは基本的にスポーツチームの窓口になっていたり、会社のPRに携わっています」
──セルソース株式会社が提供している加工受託サービス「PFC-FD™」(自身の血液を採取してPRPを抽出し、さらに無細胞化しフリーズドライ化したもの)を用いた療法は怪我した選手にとって回復を早めてくれそうな期待感がありますよね。
「PRPは、僕が現役のときも打っている人がいたし、僕が最初に手術した2010年に横浜FCでプレーしていたときも、そのワードを聞いていたので、現役の頃から知っていました。まさか自分がその領域に関わるとは思ってもいなかったですけど(笑)。「PFC-FD™療法」は自己血液由来の成分を用いた治療なので、アレルギー・異物反応のリスクが少ないんです。あとは抗炎症だったり、治療促進は期待をされています。僕は膝を4回手術していますけど、手術をすると色んなものを失います。これは経験している人じゃないと分からないと思いますが、感覚が変わってきてしまいます。だから、その手術を避けられるのであれば避けられるようにしてくれるのがメリットだと思っています」
──これが早期回復への助けに。
「そうですね。使わないことが1番いいんですけどね(笑)。僕も5クラブに行ってシーズンを通して怪我人ゼロのチームはどこもありませんでした。やっぱりチームとして怪我人は出したくないけど、どうしてもシーズンを戦ううえでゼロにするのは、ほぼ無理だと思います。だからこそ、そういったところでサポートしていきたいです。それで少しでも早く復帰してほしいです」
──現在、セカンドキャリアを歩んでいる武岡さんが描いている夢はなんでしょうか。
「正直なところ引退をしてから時間が止まったままです。長い間、サッカーと生きてきました。進学を決めるのもサッカーありきだったし、生活リズムもサッカーありき。サッカーを中心に生きてきたなかで、それがなくなりました。今でもポッカリ穴が空いたままです。でも進むしかありません。そのなかでサッカーから離れようと決めたのに、また違う形でサッカーと携わっています。僕はアスリートが痛みや怪我を抱えている気持ちがすごく分かります。
僕自身も現役のときは苦しんだし、人生が変わってしまうこともあれば、選手生命を大きく左右しまいます。だからこそ少しでも人生100年時代と言われるなかで、現役生活を少しでも長く過ごしてほしい。サッカー選手はピッチに立ってなんぼ。少しでも多くの時間をピッチに立って、少しでも長く選手でいてほしい。その長くいられる選手でいられる時間を痛み、怪我なく過ごしてほしいという思いが1番強いですし、その思いが自分を動かしています」
(後編へ続く)
(取材:高澤真輝)
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■PROFILE
武岡優斗(たけおか・ゆうと)
【© KAWASAKI FRONTALE】
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