栗山巧の武器、球界屈指の選球眼を生んだ“1年左縛り”とは? ともに24年目を戦う盟友へ変わらぬ思いも明かす
24年間、互いを認め合える理由
2001年12月、新入団発表でポーズをとる栗山巧(後列右)と中村剛也(後列左) 【写真は共同】
はっきり覚えていないのは、指示された打ち方がそれだけ自然に身についていたからかもしれません。いずれにしても「ボールをしっかり見極める」というスキルは、のちに僕の大きな武器になることになります(編注:歴代16位、現役では2位の通算1051四球を記録している)。
思えばルーキーイヤーの内野手生活でも、窮屈さの中で得たものは大きかったなと。投げ方の改善だけじゃない。あのタイミングで内野視点から野球を学び直すことができたからこそ、今もプロとしてやれている気がします。
制約の中でこそ学べるもの、得られる気づきはある。当時を振り返って、あらためて思います。
もちろん、のびのび育ったほうがいいタイプもいる。でも少なくとも僕は、制約の中だからこそ「自分らしさ」を見つけることができました。
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おかわりにも制約は必要だったか? うーん、どうでしょうね。彼は僕と違って、最初からすごかったですからね。
中村剛也というすごいバッターがいるという評判は、早くから関西には響き渡っていました。同期としてライオンズに入団してみて、思っていた以上にすごいと感じました。
初めて一緒になったのは新人合同自主トレ。一振り見ただけで「ああ、これは自分とはレベルが違うな」と。
力強いだけじゃなく、しなやか。手首のやわらかい使い方から来るものでしょうけど、いずれにしてもいまだに誰よりもホームランが打てるあのスイングは、入団当初の時点でほぼ出来上がっていたように思います。
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キャラも変わりませんね。
一緒に内野のゴロ捕球ドリルをしていた時もそうでした。僕が必死にやっているとなりでおかわりは、最初から最後まで表情も変えずに淡々とやっていました。仲は良かったし、よくメシにも行きましたけど、一方で気が乗らないときには取りつく島もなかった。
そう考えると、あんまりオープンな感じじゃなかった気もしてきました。それに比べると、今はだいぶオープンになりましたね。あいつも成長しています(笑)。
おかわりは早々に、僕も徐々に一軍の試合に出られるようにりました。やがてお互いチームの主力になった。
「同期の存在が励みになったのでは?」とよく聞かれます。確かに励みではありましたが、それ以上に役割分担ができたのがとても大きかったように感じています。
彼は僕が持っていないものをたくさん持っている。一方で、彼ができない僕だけの役回りみたいなものもあるとは自負しています。
なのでお互い「ここは向こうの得意分野やから頑張らんとこ」と考えられる。自分は自分の持ち場を頑張ればいい。それでかなりやりやすくなっているところがあると思うんですよね。
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人に頼って、得意な分野を広げようとしないなんて。プロとしてどうなんだ。
そんな見方もあるかもしれません。でも、お互いが「自分らしさ」に徹することができたからこそ、ここまでプロを続けて来られたところはある気がしています。
気づけば今シーズンは、2人して球界最年長野手ですね(編注:1月22日時点)。それはやっぱり、あいつと僕だったからこそ。そう思っています。
(構成:塩畑大輔、企画:スリーライト)