栗山巧の武器、球界屈指の選球眼を生んだ“1年左縛り”とは? ともに24年目を戦う盟友へ変わらぬ思いも明かす
田邊コーチから命じられた「やるべきこと」
プロ2年目、田邊二軍打撃コーチ(当時)からの教えを実践し、鍛錬を積み、栗山が得たものとは 【写真は共同】
でも、それだけじゃない。内野手には、投手も含めて連携して動くルールが、無数にあります。これまで外野からなんとなく眺めていたそうした動きを、自分事として覚えなくてはいけなくなった。
いっぱいいっぱいになるというのは、ああいうことを言うんだと思います。「いつまでに一軍に上がりたい」とかはもちろん、お風呂どうこう、プライベートどうこうみたいな話も、考えている余裕はまったくありませんでした。
あとで教えてもらったのですが、球団は僕にショートスローを覚えさせたかったようです。確かに後々、投げ方を覚えたことは役に立つことになったのですが、いずれにしても当時は本当に大変でした。
気づけば1年が過ぎていた。そんな感じだったと思います。自分では手応えはなかったのですが、僕は次なるステップに進むことになった。
シーズンが終わりかけたある日。
僕は二軍の打撃コーチだった田邊徳雄さんに呼び出されました。
◇
「お前はどんな選手になりたいんだ?」
唐突に、そう問われました。僕はまごついてしまった。もう何か月間も「内野手の練習にどうついていくか」にしか思いが及んでいませんでした。
モゴモゴ言っていると、田邊さんからはさらなる問いが投げかけられました。
「4番を打てる選手になるのか?」
たぶん、無理やろうな。すぐにそう考えましたが、本当に無理なのかすらよくわからなかった。そうなりたい気持ちはあったし、頑張ったらなれるかもしれない。何より、その可能性を最初から捨ててしまうのはどうなのか。
でも僕は結局「無理だと思います」と答えました。
田邊さんは深くうなずきました。おそらく、僕に自分で考えを整理する機会をつくらせたかったのだと思います。
ただ、そこから先は違いました。考える余地や選択肢を提示するのではなく「やるべきこと」をはっきりと命じました。
「これから1年間、センターより左にしか打球を飛ばしてはいけない。練習から全て、だ」
◇
インコースだろうが、とにかく左へ。どん詰まりの激痛に耐えながら、僕はひたすら逆方向へのバッティングを続けました。
春先のどこかの試合で、センター前にきれいなヒットを打ったことがありました。会心のあたりでしたが、すぐに田邊さんに呼び出されました。
「いまの打球、どこに飛んだ」
「センターです」
「セカンドベースのほんの少し右だったな」
内心「ヒットやんか」と思いました。でも、これで完全にあきらめがついた。本当に左に打ち続けるしかない。
窮屈なだけじゃない。左手の親指の付け根はパンパンに腫れっぱなし。本当につらかった。
でも、どこかから感覚が変わりました。左方向に打つコツをつかんだのもありましたが、それ以上に「ボールを長く見る」ということが、身体でわかってきたんです。