岡山のJ1昇格が我々に教えるもの 成功を支えたカルチャーと「30年計画」
木村オーナーが作り上げたもの
試合後に喜びを分かち合う木村オーナー(左)と木山監督 【(C)J.LEAGUE】
2006年当時のファジアーノは「中国サッカーリーグ(CSL)」に所属していて、まずJFL(当時は3部相当)昇格が大きな目標だった。同年のCSLを制して地域リーグ決勝大会(現・全国地域サッカーチャンピオンズリーグ)に進出するも、決勝ラウンド3位で昇格に届かなかった。
「当時はみんな岡山の子で、アマチュアの選手でした。『俺がお金を集めてくるから、プロ化に踏み込む』と言ったら、選手25人のうち19人が退団したんです。自分が来たばかりに、彼らのプレーする場を奪ったことは事実です。そのときは本当に辛かったし、今も夢に出てきます。ただ彼らが自慢できるようなクラブを作るのが、自分にできる唯一のことでした。今日は彼らも観戦に来てくれて、一緒に喜び合えて良かったです」(木村オーナー)
当時はライブドア事件、村上ファンド事件で社会が騒然としていた時期。六本木ヒルズのオフィスで仕事をしていた木村オーナーにもその「風評被害」が及び、営業面で苦戦した時期もあったという。しかしクラブは踏みとどまり、2007年にJFL、翌年にはJ2への昇格を決めた。
岡山は兵庫県、広島県に東西を挟まれている。兵庫にはタイガースとヴィッセルがあり、広島にはカープとサンフレッチェがある。一方で岡山はファジアーノが誕生するまでプロ野球、J1どころかプロスポーツさえない土地だった。
「僕は『何も無くていいですか? スポーツチームがなくてもいいですか?』と問いたくて、岡山に帰ってきました。チームが必要だと色んな方が認めてくださって、今はこういう景色になっています」(木村オーナー)
シティライトスタジアムの記者席はすぐ左にVIPエリアがあり、岡山の政財界要人と思しき方々が「ノリノリ」で試合を楽しんでいた。昇格が決まると木村オーナーは古参のサポーターからスーツ姿の紳士まで、様々な方々と抱き合い、喜びを分かち合っていた。それは木村オーナーとクラブが18年かけて積み上げた人の「縁」と「絆」だろう。
「30年計画」の実現に向けて
木村オーナーは次の夢に向かう 【(C)J.LEAGUE】
「『3年でJリーグ昇格、7年で練習拠点、10年で1万人、15年でJ1に昇格、20年でフットボールスタジアム、25年でACL出場、30年で(サッカー以外も含めた)すべてのスクールを作る』という30年計画でやっています。2006年は役員が5人で、社員は2人しかいなかったんですけど、役員合宿を3回して決めた計画です」
J2昇格は2009年、政田サッカー場の開場は2013年で、まさに計画通りだった。J1昇格は予定より3年遅れの18年目に実現した。次のステップは「フットボールスタジアム」「ACL(AFLチャンピオンズリーグ)」だが、J1昇格と同等以上に高いハードルになる。
J1昇格プレーオフは満員で、約1万5000人収容のスタジアムの外には仙台サポーターも含めて「チケット難民」があふれた状態だった。相手がJ1のビッグクラブとなれば、このキャパシティでは不足だ。またクラブの経営規模はJ2でも「中の中」「中の下」で、決してビッグクラブではない。20億円弱の年間予算はJ1定着を目指すなら、どう考えても心もとない。
J1昇格は成長に向けたチャンスだが、同時に試練でもある。一方で「何があっても屈せず、全力を尽くすカルチャー」をピッチ内外で彼らは持っている。
木村オーナーは言う。
「明日からは『お金がない』とまた地元のメディアで言い続けます。新潟は2003年11月23日に、4万人のビッグスワンでJ1昇格を決めました。でもウチは15000人しか目撃者がいなかった。お金とスタジアムは絶対に必要です。明日からもう休む暇なく、私も営業をしまくろうと思っています」
岡山の成果は、地方の市民クラブでも夢が見られるという証明だ。一方で「ここまでやらないとゼロからJ1まで届かない」という教訓も我々に教えてくれる。
ストーリーの続きが、今から楽しみだ。