38歳のお祭り男 FC東京・長友佑都の国立物語に次なるページが刻まれる

馬場康平

9月12日に38歳の誕生日を迎える長友佑都 【©FC TOKYO】

 国立競技場は改修されたけど、新しさの中にどこか懐かしさを感じる場所になった。サッカー少年の夢の数だけ“オレの国立話”が存在する。ここにも一人、聖地・国立に魅せられた選手がいる。長友佑都は変わらず憧れの場所だと言った。変わらぬ男は、夢舞台で38歳になって初の試合を迎えようとしている。(取材日:8月27日)

脳裏に刻まれた雪の決勝

 それは憧れの記憶として今も脳裏に焼き付いたままだ──。長友佑都は1998年1月8日の国立を舞台にした高校サッカー史に残る“雪の決勝”が今でも忘れられないという。小学生だった当時、テレビの前で釘付けになった。今も語り継がれる第76回全国高校サッカー選手権決勝で対峙した東福岡高校と帝京高校の名門対決は、史上初の高校3冠を成し遂げた“赤い彗星”に軍配が上がった。

 白く染まった聖地が、ロマンチックに映ったのかもしれない。それ以上に、こんな強いチームの一員になりたいと胸が高まった……。7歳でボールを蹴り始めたサッカー少年の夢がつながった瞬間でもあった。だからなのか、国立と聞いて連想するのは自身が何度も立った大舞台ではなく、思い出すのは「あの舞台に立ちてぇ」の初期衝動だった。

「東福岡が高校選手権で優勝した、雪の決勝。国立はあの舞台となった印象がやっぱり強い。小学生の頃に、選手権への憧れを強く持った舞台だった。それがきっかけで東福岡に進学したい、あの赤いユニフォームを着たいという憧れと夢を強く持った」

 女手一つで、3人の子どもを育てた母・りえさんの後押しもあり、2002年の春に15歳で故郷・愛媛を飛び出て東福岡高校へと進学する。「そこからあの舞台に立つことが目標になった」。進学後、無印の選手が全国屈指の名門校でポジションをつかむことは容易ではなかった。それでも、歯を食いしばった。いつも思い浮かべたのは、自分の背中を押してくれた人たちの顔だった。

「そのために、誰よりも真摯に自分と向き合ってきたという自負はある。自分を県外の高校へと送り出してくれた親や、支えてくれた人たちへの恩返しをするためにも国立の舞台に立たなければいけない。それは東福岡に旅立ったときから思ってきたことだった」

 積み重ねた日々は裏切らない。最終学年でチャンスをつかむと、定位置を奪取して第83回大会でメンバー入りを果たす。「選手権に出場することはできたけど、結局はあそこに立つことはできなかった」。その悔しさが糧となった。

「国立が小学生のころから抱いていた憧れの舞台、場所ということは全く変わらない。選手権であのピッチに立つという夢は叶わなかったけど、それでもいつかどこかで国立に立てる日が来るまで頑張りたいと思ってきた。それは大学に進学しても変わらぬ夢だった」

夢の扉を開く場所

海外移籍の条件として出されたタイトル獲得を叶えた、2009年ヤマザキナビスコ杯 【©FC TOKYO】

 明治大学進学後、腰痛に悩まされながらもプロへの道を切り拓いていく。2007年の3月に小平グランドで行われたFC東京との練習試合で圧巻のパフォーマンスを見せ、クラブ関係者の目に留まった。同6月には北京五輪アジア2次予選のU-22マレーシア代表戦で国立を舞台にU-22日本代表デビューを飾る。そこでいきなり先制点を挙げ、PKも獲得。得意の守備でも出色の出来で、サッカーファンの度肝を抜いた。

 翌年、1年前倒しでプロ入りを果たすと北京五輪にも出場。そこで大きな挫折を味わったことを契機に欧州挑戦への思いを強くした。当時の首脳陣からは「海外移籍を容認するにはFC東京でタイトルを獲得すること」が条件として挙げられた。長友はその約束を守るように、2009年にナビスコ杯制覇に貢献する。自身初タイトルで、クラブが5年ぶり2度目となるカップを掲げた場所も国立だった。気づけば、夢舞台は新たな夢の扉を開く場所へと変わっていた。
「U-22日本代表のときに予選で、相手は確かマレーシアだったかな。そこで初めて国立の舞台に立ってチャンスをつかんだ。2009年には僕にとっては初めてのタイトルだったナビスコ杯優勝を果たせた。国立は良い縁と結果が生まれる場所。ステップアップするためのターニングポイントにはいつも国立があった」

 2010年夏、当時イタリア・セリエAのACチェゼーナへと期限付き移籍で海を渡る。そこからインテル・ミラノ、ガラタサライSK、オリンピック・マルセイユと名だたる欧州の強豪クラブを渡り歩き、2021年夏に愛する青赤へと帰還する。

「正解を選択するのではなく、自分の選択を正解にする」

 決断に責任を負い、ときには傷つき、多くの批判を浴びながらも前へ前へと進んできた。そうして成し遂げたW杯4大会連続出場だった。一時はW杯カタール大会を機にスパイクを脱ぐ道もあったが、翻意して現役続行を決断する。日本人初のW杯5大会連続出場に向け、今年3月には日本代表復帰も果たす。出場はかなわなかったが、国立のベンチでサムライブルーのジャージを着た後輩たちが躍動する姿を見守った。

「国立のベンチから見る日本代表は経験したことがなく新鮮だった。そういった意味では今後の道も含め、それも面白いと思えた貴重な経験だったと思う」

 輝かしいキャリアの中でも国立は特別な場所であり続けた。改修後は未だ負けなしを続け、今でも深い縁で結ばれている。

1/2ページ

著者プロフィール

1981年10月18日、香川県出身。地域新聞の編集部勤務を経て、2006年からフリーに。現在、『東京中日スポーツ』等でFC東京担当記者として取材活動を行う。2019年に『素直 石川直宏』を上梓した。

新着記事

スポーツナビからのお知らせ

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント