なでしこジャパンを率いる池田太とは何者か? “熱男”と呼ばれる指揮官の知られざるストーリー

早草紀子

試合中、ベンチ前で誰よりも声を出してチームを鼓舞するなでしこジャパンの池田監督。その熱さは、選手たちにも間違いなく“伝染”している 【写真は共同】

 パリ五輪出場権を懸けたアジア最終予選、北朝鮮とのホーム&アウェイ2連戦が、いよいよ2月24日(アウェイ/中立地のサウジアラビア・ジッダ)、28日(ホーム/東京・国立競技場)に迫ったなでしこジャパン。アウェイ扱いとなる第1戦の会場が、試合3日前の2月21日にようやく正式決定する前代未聞の事態となったが、はたしてこの混乱を乗り越え、無事パリ行きの切符を勝ち取ることはできるのか。ここでは、チームを率いる池田太監督をフィーチャー。長年なでしこを追いかけ続けるカメラマンの早草紀子氏が、あまり知られていない指揮官の素顔に迫る。

26歳の若さで第2の人生を歩み始める

 2018年にU-20世代の日本女子代表を初めて世界一に押し上げた指揮官を、選手たちは親しみを込めて“熱男(あつお)”と呼んでいた。

 そして、この優勝を経験したメンバーたちが、ちらほらとなでしこジャパンに出入りするようになると、熱男こと池田太は東京五輪後の21年10月、前任の高倉麻子監督からバトンを受け継ぐ形でなでしこジャパンの指揮官に就任する。

 武南高校の3年次に、センターバックとして高校選手権でベスト8入りに貢献。大会優秀選手にも選出された池田は、その後、進学した青山学院大でも1年生からレギュラーを務めるなど、学生時代から将来を嘱望されたDFの1人だった。

 Jリーグ元年の1993年に浦和レッズでプロ生活をスタートさせた後も、主に左サイドバックとして1年目から出場機会を得たが、しかし長続きはしなかった。次第にベンチが定位置となり、悩んだ末に96年シーズン限りで現役を引退。26歳という若さでの決断を後押ししたのは、当時浦和のGM(ゼネラルマネジャー)だった横山謙三氏だ。

「指導者に向いている」

 コミュニケーション能力の高さを評価された池田は、指導者として第2の人生を歩み始めるのだ。

 翌97年から浦和のユースチームで、02年~08年にはトップチームでコーチを務めたが、同じタイミングで浦和の監督に就任したハンス・オフト氏(元日本代表監督)の教え──各々が責任をもって与えられた役割を全うする──は、その後の指導者人生において1つの指針となっている。

 12年にヘッドコーチとして着任したアビスパ福岡では、1年目に監督代行も務めるなど着実に指導者キャリアを築いていった池田が、U-19日本女子代表監督に就任するのは、17年の1月。高倉監督とS級ライセンス講習で同期だったことがきっかけで関係者の目に留まったというから、人生どこに縁が転がっているか分からない。

 そして、前述の通り翌18年のU-20女子ワールドカップ(W杯)で優勝。これは11年になでしこジャパンが、14年にU-17女子代表が世界の頂点を極めたのに続くFIFA主催大会における栄冠で、日本は史上初となる全カテゴリー制覇の偉業を達成した。

立ち上げ当初からこだわる「ボール奪取の質」

2018年のU-20女子W杯では見事な手腕で日本を初優勝に導く。長野風花や宮澤ひなたなど、当時の優勝メンバーは今やなでしこジャパンの中心選手だ 【Photo by Steve Bardens-FIFA/FIFA via Getty Images】

 この功績を評価され、池田は東京五輪でベスト8敗退に終わったなでしこジャパンの再建を託される。21年10月の国内キャンプで始動した新生なでしこには、ともにU-20女子W杯を制した若いメンバーの名前も並んでいたが、そんな愛弟子たちはキャンプ初日から、再び池田監督のもとで戦える喜びを隠せない様子だった。

 どこか浮足立った雰囲気のウォーミングアップ中、指揮官のゲキが飛ぶ。

「笑いながらできるようなメニューじゃないよ!」

 その言葉で、選手たちの表情は一気に引き締まった。「選手の心の機微を、敏感に察知できる監督なんだな」。そう感じたことを覚えている。

 そんな池田監督が立ち上げ当初からこだわっているのは、「ボール奪取の質」だ。

「積極的にボールを奪い、そこから一気にゴールを狙う」

 決して受け身になるのではなく、“攻撃に打って出るための守備”が池田サッカーのベースにある。実際、この狙いがハマった時のなでしこジャパンは強い。

 最初の1年はなでしこジャパンの伝統とも言える4バックで戦い、22年のアジアカップでベスト4入り。23年女子W杯の出場権を獲得した。しかし、狙っていたのは大会3連覇であり、ベスト4敗退は屈辱とも言える結果だった。

 ただでさえパンデミックの影響で、W杯に向けた強化期間が通常より1年短い。それも考慮した上で、指揮官はシステムの変更を決断する。より攻撃に人数にかけ、押し込まれた際には守備に厚みを出せるオプションの1つとして3バックに着手したのは22年10月、W杯開幕まで残り9カ月という時期だった。

 4バックの精度を高めるよりも、相手や試合の流れによって自在に可変できるよう3バックを導入する。そこに池田の大胆さが垣間見えた。

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著者プロフィール

東京工芸短大写真技術科卒業。1993年よりJリーグ撮影を開始。1996年から日本女子サッカーリーグのオフィシャルカメラマンとなる。以降、サッカー専門誌で培った経験を武器に、サッカー撮影にどっぷり浸かる。現在はJリーグ・大宮アルディージャのオフィシャルフォトブラファーであり、日本サッカー協会オフィシャルウェブサイトでは女子サッカー連載コラムを担当している

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