エア・ジョーダン“生みの親”とコービーの出会い 「偶然の組み合わせ」によって新たな歴史が始まった
【写真:ロイター/アフロ】
マイク・シールスキー 著『THE RISE 偉大さの追求、若き日のコービー・ブライアント』はNBAレジェンド、コービー・ブライアントがフィラデルフィアで州大会優勝を成し遂げ、レイカーズに入団するまでの軌跡を描いています。この連載では、コービーの高校時代を彩るさまざまな要素を一部抜粋の形でご紹介します。
※リンク先は外部サイトの場合があります
その出会いについて理にかなった説明はできず、神の手によって起こったとしか説明がつかないとでも言うようだった。「特殊な状況と偶然の組み合わせによって、歴史はニュージャージーで書き換えられた」と彼は言った。
彼がそう説明するのも当然だった。シューズを売り、幾人ものスニーカー王を作り出し、マイケル・ジョーダンとNikeの間を取り持ち、誰も探していない頃からコービーを探し出した男、それがソニー・ヴァッカロだった。
ヴァッカロがすでに築いていた土台や仕事の蓄積を通してコービーが彼の前に現れた、という説明では不十分だった。何年も前にヴァッカロが構築した情報源や人間関係のうちのひとりであるフープ・スクープのアレン・ルービンが、この子は君のキャンプに来るべきだ、と電話をかけたからという話も十分ではなかった。コービーが自らを伝説の英雄として捉えるのなら、ソニー・ヴァッカロだってコービーの躍進において自分が果たした役割に多少の神秘性を交えてもいいのではないか。
ヴァッカロ自身にも人並外れた物語があった。
彼はピッツバーグのすぐ外にあるペンシルベニア州トラフォード出身の元教師でプロのギャンブラーだった。表情豊かな皿のように大きな目をしていて、イタリアのお爺さんのような愛情表現をし、辛口ながらも高校生と通じ合うことができた。
ヤングスタウン・ステート大学男子バスケットボールのリクルーターをパートタイムで務めていた彼は、その立場を利用してダッパーダン・クラシックの設立に繋げ、それをNikeの仕事に繋げ、それが1984年のロサンゼルス五輪でのマイケル・ジョーダンとのミーティングに繋がった。
彼はたった一試合しかジョーダンのプレーを見ていなかったが、1984年にプロ入りするこの選手にNikeが用意した契約予算の全額である50万ドルを渡そうと決めるにはそれで十分だった。代わりにチャールズ・バークリーにあげることもできたし、サム・ブーイとサム・パーキンスの2人の間で分けることだってできた。
彼はなぜそうしなかったのか。
全額をマイケルに賭けるべきだとなぜわかったのだろうか?
1985年に発売されたNikeエア・ジョーダンのスニーカーが業界そのものに革命を起こし、ジョーダンが地球上で最も人気と実力を兼ね備えたアスリートになるということがどうしてわかったのだろう?
ソニーはいつものソニーらしく、ソニーがやることをやっただけだった。「今まで生きてきて、こいつに賭けてみようと思ったときのことは言葉で説明できないんだ」と彼は語った。「私はスカウトではなかった。そういった勉強なんてものも一切してこなかった。いわゆる勘だった。でもわかったんだ。わかったということは確かだった。探し求めていたものがあって、それを見つけることができたんだからね」。
しかし彼は、その頃にはAdidasと再スタートしていた。クライアントには小規模な大学のコーチが40人いたが、スーパースター選手はいなかった。ABCDキャンプにはまだコーチや有望選手が集まってきたし、AAUや高校のコーチとの繋がりや友情も途絶えることなく、固いままだった。
NCAAはいまだに彼のことを敵視していた。才能ある無報酬の選手たちは無数にいて、ヴァッカロが彼らに対して多大な影響力を持っていることが気に食わなかったのだ。そして彼も同じように協会のことを嫌っていた。選手たちは貧困層の黒人の若者である場合が多く、彼らを利用することで何百万ドルも稼げるシステムを見出したNCAAは、うわべだけのアマチュア精神の下、選手たちにはその対価を一銭も払わなかった。高校選手を大学バスケから引き離し、彼らが自分達とその家族のために十分な金額を稼ぐことで(公正を期して言うならばヴァッカロも利益を享受するわけだが)NCAAに仕返しをすることができるなら、ヴァッカロはその機会を逃すつもりはなかった。
まだAdidasではそれを実行するためのリソースも予算も手に入れていなかったものの、いずれ実現するということはわかっていた。さらに彼には次のマイケル・ジョーダンを見つけ出すという使命があり、それも実現することができるとわかっていた。