西浦颯大“やらかし”の1年目から心を入れ替えてつかんだチャンス 菅野智之からアーチを放ち、19歳での開幕スタメンへ
2年目・19歳での開幕スタメン
2年目の開幕スタメンは、運がよかったんだと思います。
2年目はキャンプから一軍スタートで、めちゃくちゃ調子がよかったんです。そこからトントン拍子に開幕まで行きました。
1年目にやらかしすぎて、さすがに「しっかりしないと」と思ったことが大きかったと思います。それまでは野球をなめていたというか。
でも2年目は〝職業〞としてちゃんと野球に向き合うようになりました。
1年目のシーズンオフは、地元に帰り、中学時代に所属していた熊本北シニアで監督として指導を受けていた元プロ野球選手(ヤクルト)、釘谷肇さんのもとで自主トレを行いました。もっと体を強くしたいと思ったので。
高校時代は細い体でもホームランを打てていたんですが、プロに入って金属バットから木製バットになって苦労していました。もっと強く振りたいと思うようになって、ウエイトトレーニングを増やしたりしていたんですが、改めて初心に返り、釘谷さんのもとでしっかり体を作ろうと思った。それがよかったのかもしれません。
僕にとって大きな自信になり、またアピールにもなったのが、3月8日の読売ジャイアンツとのオープン戦でした。その日は2番・レフトで先発し、巨人のエース・菅野の智之さんから、一軍で初めてのホームランを打ったんです。
打席に入る前にベンチで、当時の西村徳文監督に「初球、まっすぐが来ると思うから、狙っていけ」と言われていました。そうしたら本当にまっすぐが来て、振ったら、ホームラン。
しかもその日は2安打4打点でした。前年にセ・リーグの最優秀防御率、最多勝利、最多奪三振のタイトルを獲り、2年連続の沢村賞を受賞していた球界を代表する投手から打てたことは、オープン戦とはいえ、すごく大きかった。それに、当時の僕の年俸は500万円で、菅野さんは何億ともらっていたでしょうから、その菅野さんから打つことができて「やった!」という感じでしたね。
その年のオープン戦では、チームとして「足を使う」というテーマがあったこともあり、福田周平さんと僕が1、2番で起用されていました。
そしてそのままの流れで、開幕戦は周平さんが1番、僕が2番で先発出場しました。
コーチには「開幕戦はいつもの試合と空気が違うから、どれだけ長くやっている選手でも、緊張しないやつはいない。絶対緊張するで」と言われました。
僕はあまり緊張しない性格なので、「緊張? せーへんと思うけどな」と思いながら打席に立ったら、案の定、まったく緊張することなく、開幕戦では2安打を記録することができました。あの時はまだコロナ禍に見舞われる前だったので、北海道日本ハムファイターズの当時の本拠地・札幌ドームは満員の観客で埋め尽くされていましたが、それでも全然緊張はなくて、「あれ?」と拍子抜けするぐらい、いつも通りに臨むことができました。
僕は入団会見の時に、「2年目からレギュラーを獲れるように頑張ります」と宣言していたんですが、2年目はその実現に向けていいスタートを切ることができました。
2年目はキャンプから一軍スタートで、めちゃくちゃ調子がよかったんです。そこからトントン拍子に開幕まで行きました。
1年目にやらかしすぎて、さすがに「しっかりしないと」と思ったことが大きかったと思います。それまでは野球をなめていたというか。
でも2年目は〝職業〞としてちゃんと野球に向き合うようになりました。
1年目のシーズンオフは、地元に帰り、中学時代に所属していた熊本北シニアで監督として指導を受けていた元プロ野球選手(ヤクルト)、釘谷肇さんのもとで自主トレを行いました。もっと体を強くしたいと思ったので。
高校時代は細い体でもホームランを打てていたんですが、プロに入って金属バットから木製バットになって苦労していました。もっと強く振りたいと思うようになって、ウエイトトレーニングを増やしたりしていたんですが、改めて初心に返り、釘谷さんのもとでしっかり体を作ろうと思った。それがよかったのかもしれません。
僕にとって大きな自信になり、またアピールにもなったのが、3月8日の読売ジャイアンツとのオープン戦でした。その日は2番・レフトで先発し、巨人のエース・菅野の智之さんから、一軍で初めてのホームランを打ったんです。
打席に入る前にベンチで、当時の西村徳文監督に「初球、まっすぐが来ると思うから、狙っていけ」と言われていました。そうしたら本当にまっすぐが来て、振ったら、ホームラン。
しかもその日は2安打4打点でした。前年にセ・リーグの最優秀防御率、最多勝利、最多奪三振のタイトルを獲り、2年連続の沢村賞を受賞していた球界を代表する投手から打てたことは、オープン戦とはいえ、すごく大きかった。それに、当時の僕の年俸は500万円で、菅野さんは何億ともらっていたでしょうから、その菅野さんから打つことができて「やった!」という感じでしたね。
その年のオープン戦では、チームとして「足を使う」というテーマがあったこともあり、福田周平さんと僕が1、2番で起用されていました。
そしてそのままの流れで、開幕戦は周平さんが1番、僕が2番で先発出場しました。
コーチには「開幕戦はいつもの試合と空気が違うから、どれだけ長くやっている選手でも、緊張しないやつはいない。絶対緊張するで」と言われました。
僕はあまり緊張しない性格なので、「緊張? せーへんと思うけどな」と思いながら打席に立ったら、案の定、まったく緊張することなく、開幕戦では2安打を記録することができました。あの時はまだコロナ禍に見舞われる前だったので、北海道日本ハムファイターズの当時の本拠地・札幌ドームは満員の観客で埋め尽くされていましたが、それでも全然緊張はなくて、「あれ?」と拍子抜けするぐらい、いつも通りに臨むことができました。
僕は入団会見の時に、「2年目からレギュラーを獲れるように頑張ります」と宣言していたんですが、2年目はその実現に向けていいスタートを切ることができました。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
小学6年生でソフトバンクジュニアに選出されるなどセンス抜群の野球少年だった西浦颯大。
中学、高校と輝かしい経歴を歩み、オリックスではあのイチロー以来、10代でホームランを記録するなど華々しい野球人生を歩んでいた。
そんな“野球に愛された男”に突然の病魔が襲い掛かる……
国の指定難病「特発性大腿骨頭壊死症」を患い、医師から告げられたのは「復帰は8割強、無理」という非情通告……
懸命にリハビリに励むも、復帰は叶わず、22歳の若さで球界を去ることに……
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