U-18W杯 経験者は語る&現地レポート

オリックス・宮城大弥がU-18W杯でつかんだ大きな自信「小さいカラダでも、プロでやれる!」

前田恵
 宮城大弥(オリックス)が初めて日の丸を背負ったのは、中学3年(2016年)の夏。福島県いわき市で開催された、「第3回WBSC U-15ベースボールワールドカップ2016」に“侍ジャパン”の一員として選ばれたときである。それから3年後、U-18 W杯の代表として再び身につけた、“JAPAN”のユニフォーム。そこで「中学生のときには感じなかったもの」を初めて感じ、宮城は身震いした。

さまざまな思いを胸に侍ジャパンへ

「中学生のころは、まだ何をするにも親や先生に頼り切り(の子ども)だったから……」と宮城は言う。3年が経ち、高校生として、野球選手として独り立ちを始めていた。自分が選択した行動とその結果には責任を持たなければいけない。宮城家の一員として、興南高校の生徒として、そしてU-18W杯では日本代表の選手として、自覚を持って行動する。そうした自覚の高まりが責任の重さとなり、同時にプレッシャーも招いた。

「でも、せっかくいただいた(日本代表の)チャンス。頑張って、このチャンスを生かそう。しっかりやり抜こうとだけ思って、大会に入りました」

 当然、プロは目前の目標だった。U-18のチームメイトは佐々木朗希(大船渡~ロッテ)、奥川恭伸(星稜~ヤクルト)を筆頭に、プロ注目の選手ばかり。まずは「世界一」という絶対的な目標に向かって、チームのために自分の役割を果たすこと、そのなかで自身の持てる力を発揮し、プロ入りへの自信をもっと付けたかった。

スペイン戦では代打で出場した宮城。二刀流として投打で活躍を見せた 【写真:共同通信社】

 大会はDH制だったが、宮城は西純矢(創志学園~阪神)と共に、投打(外野守備を含む)の“二刀流”で出場することになっていた。特に投手陣は、2本柱として期待されていた佐々木、奥川の大会前半の登板が難しく、スクランブル態勢。宮城の大会初出場はオープニングラウンド初戦、スペイン戦での代打出場だった。その翌々日のアメリカ戦で、初めて投手としてマウンドに上がった。大会4連覇中のアメリカに16対7と大量リードした場面で送り出された、最終回のマウンドである。

「あの試合は投打ともにいい感じで力を出せて、ベンチも行け行けムードでした。アメリカの選手は球も速いし、ボンボン振ってきて、本当に“ベースボール”という感じ。体格も大きく、パワーがある。僕は日本チームのなかでも小さいほうで、“みんなデカいな”と思っていたくらいですから、より大きなアメリカの選手はやはり意識しましたね。ここで自分が結果を出せば、“小さくたって、できる”ことを証明できる。日本で大会を見ている小柄な子どもたちにも勇気を与えられるんじゃないかと思いました」

 4番から6番までの中軸を空振り、見逃し、空振りの3者連続三振に斬って取った。翌日は、台湾戦に先発。雨の降りしきるなか4回2/3、90球を投げた。雨脚が強くなり、試合は5回コールド。失点3(自責点1)で負け投手になった。球数制限の関係で、次のパナマ戦は登板できない。パナマ戦とスーパーラウンド初戦のカナダ戦は、野手(レフト)として出場した。

西純矢と助け合ったスーパーラウンド韓国戦

スーパーラウンド韓国戦で7回から登板した宮城。この試合が最も印象に残っているという 【写真:共同通信社】

 大会で最も印象に残っているのは、スーパーラウンド2戦目・韓国戦での出来事だという。この試合、宮城は「6番・レフト」でスタメン出場。先発は、大会初登板の佐々木である。ところが佐々木は右手中指に血マメができ、1回19球で降板。ライトを守っていた西が急遽マウンドに上がり、宮城がライトに移った。

 5回、西が2死一、二塁のピンチを迎える。打席には2番のキム・ジチャン。キムの当たりがライトに飛んだ。ランナーは一斉にスタートを切っている。宮城は打球に猛チャージをかけた。

「当然、ランナーは(三塁を)回ると思っていましたから。向こうもガムシャラに来たので、ホームにいい送球ができてよかったです。(捕手が)余裕をもってアウトにできました。あのとき投げていたのが、西。そのあと、僕が(7回からマウンドに上がって)9回2死一、二塁でレフト前に打たれたとき、西がバックホームで二走を刺し、(サヨナラ負けの)ピンチを救ってくれた。お互い助け合えたのも、いい思い出です」

 そのとき一塁にいたランナーは、宮城が頭に死球を与えてしまった1番バッターのリー・ジュヒョンである。

「ぶつけてしまった瞬間、“ヤバいな、申し訳ないことをしたな”と思いました。何度か帽子を取って謝って、彼が無事ファーストに歩いていったのを見届けてから、また謝りました。そうしたら、彼が僕に向かってお辞儀をし、“大丈夫だよ”という感じでフォローしてくれたんです。そのさりげないポーズに、救われました。韓国での開催でしたから、スタンドはほぼ地元ファンで、異様な雰囲気になっていました。おかげであの雰囲気に呑み込まれずに済みました」

 しかしチームはこの韓国戦を落とし、メダルを賭けたオーストラリア戦にも敗れ、5位に終わってしまう。実績も実力もある選手が揃い、チームとしても「世界一」を目標に掲げていた。期待もされていた。宮城自身、「もっともっと、いい順位で終わりたかったですし、応援してくれた人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいでした」。一方で間違いなく、この大会を経て自分は多くのものを得たという実感はあった。

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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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