「天才レフティ」中居時夫の知られざるキャリア 「巧い選手と戦う」ために、高2で単身イタリアへ
中3では一学年上のU-16日本代表に選出。阿部勇樹らの世代では一番の出世頭に
常に自分の年齢より上のカテゴリーでプレーしたことで、「巧いやつと戦いたい」という欲求が高まった(写真はコブレンツ時代) 【写真:アフロ】
「自分がやっていけるか分からないぐらいのレベルだったけども、巧いやつとやれるのが楽しかった。(自分よりもすごい選手を)超えたい。その気持ちだけで無我夢中でした。本当にサッカーだけしかやっていなかったと思う」
ジュニアユースのトップチームで出場機会を得られるようになると、中1の冬に行われた高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会で結果を残す。当時中学3年生の稲本潤一(現・南葛SC)擁するG大阪のジュニアユースと準決勝で対戦。途中出場ながらアシストで勝ち上がりに貢献し、三菱養和との決勝では敗れたもののゴールを決める活躍を見せた。
左利きで技術があり、フィジカルも恵まれている。新しい環境でもずば抜けたプレーを見せ、中学2年生では関東選抜に選出。順調に成長を遂げていくと、中学3年生では一学年下ながらU-16日本代表のメンバーに招集されたのである。
一世代上の市川大祐(元清水ほか)や金古聖司(元鹿島ほか)といった有望株とのプレーは、中居にとって刺激的だった。
「最初は、自分がやっていけるか分からないぐらいのレベルだった。だけど、巧い選手とプレーできるのが楽しくて仕方なかった」
負けず嫌いで努力を惜しまない。周りから天才肌の選手と見られる向きもあったが、努力家の中居は誰よりもサッカーに打ち込んでさらなる高みを目指した。
中3だった1996年にはU-16日本代表の一員として、U-17世界選手権(現・U-17ワールドカップ)のアジア最終予選(U-16アジア選手権)に出場。途中出場が多く、チームも予選敗退に終わったが、同い年の阿部勇樹(元浦和ほか)らより先に飛び級でメンバー入りした事実は変わらない。気が付けば同級生からも一目置かれるようになっていた。
常に上のカテゴリーでプレーする環境に身を置いていたが、当時は飛び級で上の世代に混じってプレーする前例があまりない時代。飛び級はかなり珍しかったのである。そうした環境に身を置いた中居にとって、上のレベルで戦う日々は楽しかった。
その一方で、徐々に物足りなさも感じていた。
「自分が与えられた場所でプレーして、常に越えていく気持ちでやっていた。気づいたらその1個上の世代別まで入っていたから、もっと上を目指したかった」
気が付けば、視線は国内から海外に向けられていた。
苦悩に満ちたマリノスでの日々を経て下した決断は――
夢の実現のためにはなるべく早くトップチームでプレーするしかない。そんな想いを持っていた中居だが、当時の横浜Mは高校生をJの舞台で起用する下地がなかった。
「市原でプレーしていた酒井友之さんが高校在学中にトップチームでデビューしたので、それをいいなと思いながら見ていたんです。そしたら、移籍を考えるようになった」
高校在学中にトップでプレーするべく、中居は環境を変える可能性を模索。実際、中3の時点でヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)と市原のユースから話があったという。当時はユース年代で他のクラブに移籍する例がほとんどなかっただけに、異例の考えだった。ただ、クラブもこの動きを察知。将来のエース候補を逃すまいと、慰留に務めた。そこで話し合いの場に現れたのが、中居を見出した野地である。
「上に話すから、ユースにしっかり残ってアピールしなさい。活躍できれば、トップチームへの道が切り開けるようにする」
野地の言葉に心が動き、残留を決断。ユースに昇格すると、高校1年生からサテライト(当時、Jクラブが持っていたセカンドチームのリーグ)でプレーし、アピールを続けた。しかし、待てど暮らせど状況は変わらない。高校2年生を迎えてもトップチームから声が掛からず、再び想いが海外に傾くのは無理もなかった。
新たな道を切り開くべく中居は、クラブに断りを入れずに単身イタリアへ向かう。高校2年生の夏、17歳を迎えた時だった。
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