いま、カンボジアサッカーが熱い。プロリーグ発展に情熱を注ぐ日本人“ダブルサイトウ”

木村雄大(ライトハウス)

人々のハートから変革を起こす

チャレンジ精神にあふれるカンボジアの人々と共に改革を進めている 【(C)CPL】

 そもそも、外国人が自国の改革の根幹を担うことに対する抵抗や反発はカンボジアではないのか。その点に関しては、聡氏、陽介氏ともに大きな障壁はないと話す。

「カンボジアの人々にとって日本は、ODA(政府開発援助)などを進めてきた先人たちの取り組みもあり、良いイメージを持たれています。もともとサッカーの人気はあったけど、昔からのしきたりなどもあってなかなか変化を起こせなかったところで、外国人を入れて変えていこうとなったようです。カンボジアの人々は、経験者である日本人の言うことであれば間違いないと受けとってくれる傾向にありますし、何よりも若いが故に目が輝いている。新しいチャレンジをすることに貪欲で、『まずはやってみよう』と行動のスピードが速いんです」(聡氏)

「最初にカンボジアに来たとき、日本で映像制作をしてきた身からすると『え?』と思うような中継やグラフィックが多かったので、僕たちの経験の中からアドバイスをさせていただきました。ここではFacebookを通して見る人が多いので、そこで見やすい映像とはどういうものかを意識しています。すると、あっという間に良くなっていったんですよ。本当に素直に聞き入れてチャレンジしてくれますし、僕が何かをやろうとなったときにも、すごく協力的なんです」(陽介氏)

 イージープロダクションが関わる以前からカンボジアにも放送局は当然存在しており、映像制作にも取り組んできていた。インターネット環境や機材の不足がありながらも、「ないなりに皆で知恵を絞ってきたベースがあった」と聡氏。そこに持ち込まれた同社の中継プラットフォームやノウハウが加わることで映像のクオリティーは劇的に向上し、毎試合、1~2万人がCPLの試合を視聴する状況にもなっている。それまでライバルがいなかった放送局との競争も生まれた。

二人の“サイトウ”は、カンボジアサッカーの発展に欠かせない存在となっている 【(C)CPL】

 それだけでも十分な成果と言えるだろうが、聡氏は「陽介さんの存在そのものが、この改革にとっては大きな財産」と評する。その大きさは、国の歴史の針を大きく動かすほどのものであるとのことだ。

「誰かに何かを教わることが少なかったカンボジアのスタッフにとって、誰が来てくれるのかというのは非常に大事でした。そこでやって来た陽介さんは、人を育てるのに長けている方。10代のスタッフもたくさんいて、彼らと陽介さんを会わせたときに、話しているうちにだんだんと笑顔になり、最後に『安心した』と言ってくれたことがありました。システム的なマネタイズしていける仕組みづくりのみならず、カンボジアの人のハートをつかみ、まさに文化をつくっている。東南アジアの可能性を最大限に生かし、カンボジアの成長に多大な貢献をいただいていますよ」(聡氏)

「シンガポール、ラトビア、ロシア、オーストラリア、エストニアと各国でプレーしましたが、コミュニケーションのとり方は国によって当然異なりますし、その場所に適応するための努力は自分なりにしてきました。そうしたサッカーを通じて得た経験は僕の財産であり、それをうまく生かせているのかなと思います」(陽介氏)

その熱量はいずれ世界を動かす

「カンボジアの人たちの目が輝いている」と両氏。その熱が世界のサッカーを動かす日も遠くない 【(C)CPL】

 3月に開幕したCPLのファーストシーズンも、いよいよ大詰め。残り2節(10月10日現在)というところで首位に立つスヴァイリエンFCは、2位のビサカFCに勝ち点差6をつけてリード。このまま逃げ切る可能性が高そうだ。

 先述の通り、競技力の向上、その先に見据える代表チームの躍進は目指すところではあるが、これは一朝一夕で実現するものではない。1993年にJリーグが開幕後、日本代表が世界と戦えるレベルになるまで10年近い歳月を要したように、カンボジア代表がタイやベトナムなど東南アジアの強豪と肩を並べるのはロングスパンの取り組みになるかもしれない。当然、ビジネス面でもまだはじまったばかりで課題も山積みではあるが、そこにある無限大の可能性を確信しているからこそ、彼らは情熱を注ぐことができるのだろう。

「今はとにかくCPLを知ってもらい、その価値をブランディングして提供していく段階です。たくさんの人に見てもらいながら、いかにマネタイズしていくか。経済的には確実に伸びているので、サッカーを中心とした経済圏を引き続きつくっていきたいです」(聡氏)

 その思いは、陽介氏も同様だ。

「カンボジアにはチャレンジを続ける優秀なスタッフがたくさんいるので、もっと中継のクオリティーを高めることができる可能性があると大いに感じています。さらに言えば、近隣諸国の状況を見ても同様です。聡さんを通じてさまざまな方にお会いする中で『うちもぜひお願いします』という言葉をいただくことも多いので、まだまだ僕たちが活躍できる余地はたくさんあります」(陽介氏)

 今回、彼らの取り組みを伺うにあたっては、日置氏のファシリテートの下、聡氏、陽介氏との鼎談形式をとった。これまでも世界を股にかけて仕事をともにしてきた日置氏と聡氏、上司と部下の関係にある日置氏と陽介氏、そしてカンボジアでともに働く聡氏と陽介氏……互いを良く知る3人の対話は笑顔にあふれ、ここには書ききれなかったビジネスアイデアがいくつか会話の中で生まれていた。映像制作ノウハウを広げるための、CPLと提携した人材交流プロジェクトなどもその一つだ。

「カンボジアの若者の目は輝いている」

 何度かその言葉が飛び交ったが、カンボジアサッカーの可能性に誰よりも目を輝かせているのはこの3人ではないか。その情熱があるからこそカンボジアの人々にも熱量が伝播し、彼らを突き動かしているのだろうというのは想像に難くない。

「僕は現役時代、子どもたちやファンに夢を与えたいと思ってプレーしていました。今は立場が変わりましたが、その思いは変わりません。スポーツを通じて、夢を与える人でありたいと思っています」(陽介氏)

 いま、カンボジアが熱い。東南アジアで生まれた火種が、大きな夢とともに、いずれアジア、そして世界を突き動かしていくはずだ。

斎藤聡(さいとう・さとし)

大学卒業後、伊藤忠商事に入社。FCバルセロナのアジア人初のスタッフとして国際化に尽力し、日本サッカー協会、アジアサッカー連盟、国際サッカー連盟に従事。アジア諸国のプロリーグ化やFIFAワールドカップのマーケティング業務に携わる。並行してFIFAコンサルタントとして、タイ、インドネシア、カンボジア等のサッカービジネス発展に寄与。2017年にGMRマーケティング日本支社代表を努めた後、2020年HMRコンサルティングを設立し代表取締役となる。2021年、カンボジア・プロサッカーリーグの初代CEOに就任した。

斎藤陽介(さいとう・ようすけ)

小学校1年時にサッカーをはじめ、2006年に横浜F・マリノスのユースからトップチームへ昇格。2010年のツエーゲン金沢への期限付き移籍期間を含め、4シーズンの在籍を経て、2011年からはアルビレックス新潟シンガポールへ移籍して活躍の場を海外へ。2012年にラトビアのFBグルベネへ移籍したのを皮切りに、ロシア、ベラルーシ、オーストラリア、エストニアのクラブに所属。2018年11月に現役を引退し、セカンドキャリアとしてイージープロダクション株式会社に入社。豊富な海外経験をベースに同社の海外事業担当としてカンボジアで活躍中。

日置貴之(ひおき・たかゆき)

大学を卒業後、株式会社博報堂に入社。その後FIFA Marketing AGで、FIFAワールドカップ日韓大会のマーケティング業務を行う。2003年にスポーツマーケティングジャパン株式会社を設立し、日本ハムファイターズの北海道移転におけるブランディング、北京オリンピック野球予選大会の大会責任者など、国内外のスポーツのマーケティングやデジタルメディアの業務などを行う。2010年よりH.C.栃木日光アイスバックスの取締役GMとなる。2017年にイージープロダクション株式会社を創設し、取締役に就任。2021年の東京オリンピック・パラリンピックでは開会式・閉会式のエグゼクティブプロデューサーを務めた。

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