山縣亮太が“激動だった東京五輪”を追憶 「あの日のミスを糧にできるように」
東京五輪で日本選手団の主将を務めた山縣亮太が、さまざまな出来事があった自国開催の五輪を振り返る 【落合直哉】
日本選手団の主将として臨んだ自国開催の五輪
陸上男子100メートルで9秒95の日本記録を更新し、“日本最速”の称号を得たことで大きな期待を背に出場した夢の大舞台。しかし、男子100メートルで予選敗退、男子400メートルリレーでは決勝で痛恨のバトンミスで途中棄権と思い描いた結果を残すことはできなかった。
東京五輪閉幕後の2021年10月に右膝の手術を受けた山縣は、2022年はリハビリに専念することを発表。7月16日から開幕する世界陸上(オレゴン)の代表選考会を兼ねた日本選手権への出場を見送った。復活を誓い調整を続ける山縣がターゲットとするのは、2024年のパリ五輪だ。「東京のミスがあったからと言えるように」と語るその視線は、すでに4度目の夢舞台を見据えていた。
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日本選手団の主将という大役を果たした山縣(写真中央)。その舞台に立つまではさまざまな葛藤があったという 【写真は共同】
五輪出場に向けて非常に追い込まれた状況ではありましたが、「ベストの練習を3ヵ月こなせれば記録を出せる」という持論があるので、復帰後からそこまで焦ることはありませんでした。4月の織田記念での復帰を1つのターゲットとしたうえで、12月からはしっかり走ることができていたので、時間的な余裕はあると感じていました。
ただ、標準記録の10秒05という高い壁を越えるためには、運も必要でしたね。日本選手権までは織田記念、布勢スプリント、水戸招待の3大会がチャンスだと考えていましたが、日本記録を出した布勢では自分にとって“良い風”が吹いたかなと思っています。どういう状況でもその時にできることに全力を尽くすことが重要なので、日々の課題をつぶすことに注力していた日々でした。
――もう1年が経ちましたが、改めて東京五輪を振り返ってみてどんな大会でしたか?
2013年に五輪開催が決まった時から「東京2020で活躍したい」とずっと目標にしてきた舞台でした。自国開催の五輪に対する期待値が自分のなかでもすごく大きかったので、自分自身にものすごくプレッシャーをかけていました。その期待値のコントロールという面ではすごく難しさを感じた大会になりました。
――開催が1年延期したことはどんな影響がありましたか?
1年ズレたことは自分にとってはプラスの面もありました。五輪選考の過程(布勢スプリント2021)で自己記録を更新できましたし、時間の猶予ができた点では良かったと考えています。
――開催自体に賛否両論がありましたが、選手としてどんなことを感じていましたか?
感じることは人それぞれかなと思います。真面目な選手はスポーツをすることの意義を見出せなくなって、モチベーションを保てなかったかもしれません。僕自身は「観ている方の心までダイレクトに届くのがスポーツの魅力」だと考えています。
悔しいとか、感極まるなど人々の感情の起伏を呼び起こすことができる“スポーツのチカラ”を信じていました。だからこそ、「どんな結果になろうとも全力でプレーする姿を見せるだけ」だと言い聞かせて大会に臨みました。でも、もちろん悩むこともたくさんありましたよ。
――これまでの五輪と比べて特殊な状況下でしたね。そのなかで山縣選手は日本選手団の主将を務めました。
主将の打診は、2021年6月の日本選手権のレース後にありました。自国開催の五輪の主将について「自分で務まるのか……」という不安や、非常に光栄だという思いが入り交じるなど、葛藤は正直言ってありました。ただ、主将という役割をいただいたからこそ、東京五輪本番までの1ヵ月間に関しては「1日1日を大切にして過ごしていこう」と気持ちを引き締めて臨めたと思っています。
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