連載: イビチャ・オシムが伝えたかったこと

巻誠一郎が書き記した“オシムの教え”「いますぐ辞めろ」と叱られた理由とは?

塩畑大輔
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現役引退後は様々な社会貢献活動に携わる巻氏。九州と東京を往復する多忙な合間を縫って、オシムさんとの思い出を語ってくれた 【スポーツナビ】

 イビチャ・オシムさんがジェフユナイテッド市原(現千葉)の監督に就任した2003年、大卒ルーキーとしてチームに加わったのが巻誠一郎氏だ。名伯楽の下で主軸に成長し、日本代表にまで上り詰めた大型ストライカーは、オシム・イズムを叩き込まれた愛弟子の1人と言っていい。現役引退から4年。現在は様々な社会貢献活動に携わる巻氏が、5月1日に亡くなった恩師の思い出を語ってくれた。前・後編の2回に分けて、インタビューをお届けする。

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 5月下旬、羽田空港。巻誠一郎さんは都内での仕事のため、地元の九州から空路で移動してきた。

「福岡の朝の情報番組に出演して、東京で仕事。これを繰り返しているので、羽田は庭みたいなものですね」

 迷いのない足取りでたどり着いたカフェで、笑顔を見せる。5月1日に逝去された元日本代表監督、イビチャ・オシムさんのことを語ってほしい。そう伝えると、おもむろにビジネスバッグから1冊のノートを取り出した。

 あくまで自分用のメモだから、見せられるようなものじゃないんですが──。

 苦笑いしながら、説明を始める。

「これは、ジェフ時代の毎日の練習メニューをメモしたものです」

多色ビブスはいわば「補助輪」だった

――当時書かれたものなんですか?

 いえ、もともとはもっと小さなメモ帳に毎日書き残していて。まさにメモというか、断片的に書いていたんですよね。それが何年か前に部屋を片付けていた時に出てきて。見返すと、当時の練習の様子が鮮明に蘇ってきた。なので、そういう記憶も付け加えながら、きれいに書き直したものです。これを見返すたびに思いますけど、あの当時の練習というのは、本当にすごかったですよね。何色ものビブスを使うことがクローズアップされていましたけど、そこじゃない。それこそ、「5レーン」とか「ゼロトップ」といった20年後の現在のトレンドとほぼ同じようなことを、当時からオシムさんは考えていたんだなと、あらためてよく分かる。

 毎日メニューが違ったのは、自分たちのチーム状況も、対戦相手の状況も、日々変わっていくから、というのが理由だったのかもしれません。でも原則はあって、それはおそらく局面で3対2くらいの数的優位をつくることを目指すというもの。90分の中で、そういうより良い形をできるだけ多くつくれるように。そうすれば得点の確率も、勝つ確率も上がる。そういうことを考えておられたのかなと、今は思います。5レーンやゼロトップに近い考え方も、直近の対戦相手やチーム状況に合わせて、手段の1つとして練習メニューに表れていた。最近のリバプールの映像などを見ていても思います。ああ、こういう形を姉崎公園(公園内のサッカー場はかつて千葉の練習場として使用されていた)での練習でもやったな、と。

 そこまで考えると、多色ビブスの見え方も変わります。考える力を養うために、あえて練習を複雑化するものとして捉えられがちでしたが、おそらく違う。あれは当時の僕らの理解が足りなかったから、オシムさんの考えについていけるようにするために示された道筋であって、いわば「補助輪」のようなものだった。あれから20年近くが経ち、時代がオシムさんの考えに追いついてきて、みんなが5レーンなどといった概念を分かるようになった。だから今ならきっと、多色ビブスなんか使わずに、言葉だけであの練習メニューをやらせるんじゃないかな。そんなことを思います。
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