野村監督が「一番楽しかった」と語る3年間 知られざるシダックス時代とは?
【写真は共同】
車椅子の野村克也がマイクを片手にそうつぶやくと、かつての教え子たちから大きな拍手が起きた。
東京が新型コロナウイルスの猛威に襲われる直前の2020年1月25日。神宮球場を眼下に見渡す日本青年館ホテル。9階にある宴会場は、野球人たちのにぎやかな声で満たされていた。
シダックス野球部OB会。
84歳になった野村もその中にいた。
野村が社会人チームの監督を務めたのは2002年11月からの3年間だ。中央の円卓では、野村を監督に抜擢した同社の創業者で現取締役最高顧問の志太勤、教え子の日本ハム投手コーチ・武田勝や元巨人投手・野間口貴彦らが思い出話に花を咲かせていた。
会の序盤に行われた冒頭のスピーチ。取材に訪れていた私は野村の老いが想像以上に進んでいることに驚いていた。発する言葉に、あまりにも覇気がなかったからだ。報道陣の間でも「沙知代さんが亡くなってから、ノムさんは元気がなくなった」との声がよく聞かれるようになった。妻に先立たれた84歳の姿としては不思議ではないだろうと、私は自らを納得させていた。
だが会がお開きになった後、報道陣の囲み取材が始まると、その表情は一変した。言葉に精気が宿り、口調も快活になった。シダックス時代の教え子が監督やコーチとして、少年野球に高校、大学、社会人、さらにはプロと様々なジャンルで後進の指導に当たっていることについて、こう喜びを語った。
「幸せだよ。人を遺すのが仕事だからな。俺の教えを引き継いでくれているのは、うれしいね。『見つける、育てる、生かす』が指導者の使命なんだけど、育てるのは本当に難しいよ。自分の欲が先行してしまうんだ。欲は捨てないと。チームのために、選手のために、とね……」
私は野村の前にしゃがんで質問を投げかけ、談話を必死にメモした。その時、ふと、懐かしさがこみ上げた。
2003年から2005年まで「スポーツ報知」のアマチュア野球担当記者として、シダックス監督時代の3年間を追いかけた。取材に行くと、こうして最前列に陣取り、率先して問いを発した。当初は「熱心さをアピールしたい」との打算からだった。
メモした野村の談話は、時には毒を含み、時には人情味にあふれ、社内のデスクに報告するとウケが良かった。新聞の紙面は有限で、各担当記者による争奪戦になるのだが、野村の記事は会社に求められ、読者からの反響も大きかった。いつの間にか打算は消えていた。グラウンドに赴くたび、私は野村の野球に対する情熱やチームへの愛情を感じ、野村が好きになっていった。野村シダックスの原稿を1行でも多く紙面に載せることが自らの使命だと思い込むようになった。
野村の健康面を 慮ったのだろう。シダックス監督時代のマネジャーで、OB会の幹事を務める梅沢直充が「それでは、もうそろそろ……」と囲み取材を打ち切った。梅沢は、野村が乗る車椅子を慎重にエレベーターの中へと運んでいった。我々は「ありがとうございました」と一礼し、その姿を見送った。エレベーターが閉まり、フロアを示すオレンジ色のランプの数字が減っていくと、記者仲間同士でこんな会話をした。
カントク、話をしているうちに、だんだん元気になってきちゃったね―。
結果的にこの日が、野村にとって最後の「公の場」となった。
OB会から17日後の2020年2月11日。祝日の朝だった。同僚記者からのLINEにスマホを持つ手が震えた。
ノムさんが亡くなった―。
この前の別れ際、あんなに饒舌だったじゃないか。それなのに、どうして?
だが、訃報に接した担当記者に落ち込む自由は許されていない。
自宅の本棚からスクラップや資料を取り出してリュックサックに詰め込み、会社に向かった。時折こみ上げる感情を「俺は記者なんだから、書くことで弔うしかない」と抑え込んだ。1面のトップ記事から番記者追悼コラム、語録、球界の反応など、夜中までひたすら原稿を書き続けた。
25時、全ての業務を終えると、トイレの個室に駆け込んだ。涙があふれて止まらなかった。
翌日のスポーツ紙、一般紙は全てコンビニで買った。特にスポーツ各紙は異例の大展開で野村の功績を伝えていた。南海の現役時代を知る古参記者や、指揮官として全盛期となるヤクルト時代の担当記者が描く秘蔵エピソードは、どの社の記事もやはり興味深かった。野村が日頃、「暗黒時代だよ。思い出したくない」と振り返っていた阪神監督時代の逸話は、それはそれで惹かれるものがあり、「国民的ボヤキスター」として記憶に新しい楽天時代の記事も大きなスペースを占めていた。
各紙を読み比べていくと、私は徐々に悔しさを募らせていることに気づいた。
シダックス監督時代の扱い、各紙あまりに小さすぎやしないか。