砂まみれの名将 野村克也の1140日

野村監督が「一番楽しかった」と語る3年間 知られざるシダックス時代とは?

加藤弘士(スポーツ報知)
「野村再生工場」という言葉がある。

 ピークを過ぎ、他球団をお払い箱になった選手たちが野村からの助言や、その思考に触れることをきっかけに復活する例が相次いだことから、球界の通称となった。

 そんな野村自身も指揮官として「再生」した過去があった。

 2001年、阪神の監督として3年連続最下位の屈辱にまみれ、夫人の脱税事件もあってプロの世界からはじき出された。「もうノムさんは終わりだ」「トシだし、二度とプロの監督はできないだろう」と誰もが思った。

 どん底の挫折から、這い上がるきっかけを与えたのは、親友であり、当時シダックスの会長を務めていた志太勤だった。日本一3度の名将がかつての栄光に別れを告げ、上下真っ赤な社会人野球のユニホームに身を包み、新たな挑戦を始めた。

 専用グラウンドも室内練習場もない。練習場は主に少年野球チームが使用する調布市の市営グラウンドだった。風よけも雨よけもなく、強風が吹くと砂埃で顔面が真っ黒になった。恵まれない環境だったが、野村は野球に没頭した。2004年に起きた球界再編騒動ではご意見番としての存在感を高め、2006年からは新興球団・楽天の監督に就任。華やかなプロの世界へと舞い戻っていった。

 私は楽天監督最終年となる2009年にも担当記者を務めた。スポーツニュースで試合後の野村のコメントが放映される瞬間、視聴率は跳ね上がるとテレビ局員は証言した。野村がテレビに出演した時間や新聞に掲載されたスペースを球団が広告費に換算したところ、年間約300億円と計算されたという。

「王や長嶋がヒマワリなら、俺はひっそりと日本海に咲く月見草」

 南海時代の1975年、通算600号本塁打を放ちながら「ON」とは注目度で天地の差があることを表した名言だが、晩節は明らかに野村自身が「ヒマワリ」だった。

 仙台での試合前、二重三重の報道陣に囲まれて饒舌に語る指揮官に接するたび、私はふと、シダックス時代の野村を思い出した。あの頃、練習が行われるグラウンドを訪れる記者は私一人の日もあった。鍛錬に励むナインの姿を見守りながら、チームの現状からプロ野球界への苦言、私の恋愛の相談まで、様々な話をした記憶がある。

 今でも書店の野球コーナーに行けば、数々の「野村本」が並んでいる。だがその中にシダックスの3年間に触れたものはほとんどない。
 プロ野球ファンにとっては「空白の3年間」かもしれない。しかし間近で目撃してきた私は、野村が新しい人と出会い、ふれあい、また数多くの人材を育成していった濃密すぎる時間だったと断言できる。

 社会人野球の世界は一見、地味である。最高峰の戦いとなる夏の都市対抗野球がスポーツ紙の1面を飾ることも稀だ。しかしそこには、日本シリーズを3度制した名将を夢中にさせる「何か」が存在した。

 結果が大金に直結するプロの世界とはまた違った、ひたむきに勝利を希求する熱き野球人が、知将を慕い、救っていった。
 自らの名誉が地に堕ち、絶望と結ばれた時、人はどのようにして再び起ち上がることが出来るのだろうか。

「あの頃が一番楽しかったな……」

 楽天の監督を務めていた頃、シダックス時代を振り返った野村の言葉である。

 野村はなぜプロ野球監督に「復権」できたのか。

「一番楽しかった」と語る3年間は、どんな日々だったのか。

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著者プロフィール

1974年4月7日、茨城県水戸市生まれ。水戸一高、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後、1997年に報知新聞社入社。2003年からアマチュア野球担当としてシダックス監督時代の野村克也氏を取材。2009年にはプロ野球楽天担当として再度、野村氏を取材。その後、アマチュア野球キャップ、巨人、西武などの担当記者、野球デスクを経て、2022年3月現在はスポーツ報知デジタル編集デスク。スポーツ報知公式YouTube「報知プロ野球チャンネル」のメインMCも務める。

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