W杯アジア最終予選特集 #この一戦にすべてを懸けろ

ラモス瑠偉の揺るぎない代表愛「日本代表の力を、勝利を信じてほしい」

北條聡

今年2月に65歳になったラモス氏だが、サッカーへの情熱は相変わらずだ。今回は自身が日の丸を背負って戦った当時のこと、そしてワールドカップ出場へ最後の戦いに挑む現代表について語ってくれた 【青山知雄/DAZN】

 ラモス瑠偉氏の日本代表に対する思いは、今も昔も変わらない。日の丸を背負い、カタールのドーハでワールドカップ(W杯)出場を目指して戦ったのが29年前。そして今、森保一監督率いる日本代表が、あの時と同じく大舞台の切符を懸けた最終決戦に臨もうとしている。かつてのジャパンの「10番」は、現代表の力、勝利を信じて疑わない。そしてファン・サポーターには、「チームを信じてほしい。その思い、パワーは半端じゃないから」と訴える。

代表は覚悟を持つ人たちだけがいるべきところ

――まずは、現在の日本代表に対する率直な印象から聞かせてください。

 いいんじゃないですか。結果を出しているから。もちろん、余裕があれば、良いサッカーを見せて楽しませてほしい。ただ、どう戦うかは監督が決めること。選手たちが求められているサッカーをしっかりと理解しながらやってくれたら、それでいい。今のチームは結構、いい感じだと思う。

――時代を問わず、日本代表の選手に求められるものとは何でしょうか?

 プライド。日本人の誇り。それこそピッチに立ったら死にもの狂いで戦うこと。クラブと代表は別ものだから。当然、才能や実力も大事。でも、サッカーだけをやりに来るようでは困る。代表はそういう場所じゃない。日の丸を背負って戦うんだからね。その覚悟を持つ人たちだけがいるべきところ。そう思っている。

――日の丸を背負う覚悟とは?

 自分のためだけにプレーしちゃダメだってこと。代表ってみんなのものでしょ。現在、過去、未来に関係なく、いろいろな人たちの思いをつなぐこと、彼らの思いを胸に戦うことが大事。ほかの人たちがどう思っていたかは知らないけれど、自分の中ではこれ以上、名誉なことはなかった。日の丸を背負って戦うこと、国のために戦うことがどれほど名誉なことか。

――覚悟と同時に責任も……。

 小さい頃から日の丸の誇りを伝えるべきだね。1対1でシュートを外して負けたら、お前の責任だよと。私は小さい頃から、厳しくそう言われてきたよ。外したときはもう悔しくて、悔しくて、泣いたね。失敗したら自分のせい。他人のせいにしちゃいけない。もちろん、誰も一人では戦えないですよ。仲間がいてこそ。彼らのためにという思いがあるなら、あと3メートル、いや、5メートルは余計に走れる。代表とはそう思えるような人たちの集まりですよ。

――ブラジルから日本に帰化し、代表の一員として戦うことになったときの心境はどのようなものでしたか?

 まさかと思ったね。自分に声をかけてくれるなんて夢にも思わなかった。自分は日系人じゃないし、日本人の血が一滴も流れていない。それでも自分の力を必要としてくれた。こんなにうれしいことはなかったね。そもそも帰化した理由は読売クラブ(東京ヴェルディの前身)への恩返し。帰化することで外国籍選手枠を増やし、ブラジルから優秀なストライカーを連れてきて、クラブを強くしたいなと。当時、特別コーチだったジノ・サニのアイデア。10代で日本に来てから、ずっとこの国の人たちに、いろいろな面で助けてもらった。その恩返しをするチャンスを与えてもらったことが本当にうれしかった。今でも、感謝しかない。横山(謙三=当時の日本代表監督)さんが代表に呼んでくれたおかげで、今の自分があると思っている。

――恩人ということですね。

 そのとおり。横山さんのおかげで、選手としても長くプレーすることができた。ラフなプレーも減ったし、日本のサッカー界を少しだけ引っ張ることもできた。すべては横山さんのおかげ。

――荒っぽいプレーが減ったとは……。

 日本協会に呼び出されたときの話ですよ。横山さんから「お前の人間性は好きだ。選手としても素晴らしい。ただ、汚いところは好きじゃない。そこを直したら代表に呼ぶぞ」と。その瞬間、ハッ!? と思ったね。私、代表ですかと。もう、すぐに「真面目になります」と言ったね。代表では36試合に出場したけど、国際Aマッチで警告を受けたのは1992年に優勝したアジアカップの決勝(対サウジアラビア)だけ。あの一回しかない。あの大会の優勝は忘れられないね。

――史上初めて日本がアジアのチャンピオンなりました。

 とにかく、日本のサッカー界を盛り上げたい、日本代表を強くしたいという思いで戦っていた。ただ、初めて代表の一員となった頃を思い出すと、そういう強い気持ちを持っていた選手たちは正直、少なかった。だから、カズ(三浦知良)や柱谷(哲二)、都並(敏史)、井原(正巳)たちと「このままでいいのか?」と話し合ったね。

オフトは最高の監督。今でもそう思っている

ラモス氏が日本代表入りしたのは横山監督時代。1991年には三浦知良(右)とともに攻撃の中心となり、キリンカップ優勝に大きく貢献した。当時の赤いユニホームは「今でも好き」と語る 【写真:築田純/アフロスポーツ】

――初めて代表の一員として参加した1990年のアジア大会は準々決勝敗退でした。

 もう、ボコボコにされてね。チームには日本代表としての自覚がない選手もいて、違和感があった。このまま代表でプレーすることに疑問を感じたから、帰国後、横山さんに「代表を辞めます」と。そうしたら横山さんに「待て」と腕をつかまれて「次も来い」と。そして、次のキリンカップに呼ばれたときにはチームがガラッと変わった。もう、メンバーから戦い方に至るまでね。私とカズを攻撃の柱に据えて、優勝したんですよ。誰もそうなるなんて思っていなかった。何より選手たちの意識が大きく変わったし、チームには一体感があった。当時の赤いユニホーム、私は今でも好きですよ。

――横山監督の決断が大きかったと。

 やろうとしているサッカーは間違っていなかったし、選手たちのことを考えながらチームをつくってくれていたね。

――ただ、長崎での日韓戦に敗れ、ハンス・オフトが新監督に就任しました。

 ピッチの状態が悪く、パワーゲームを得意とする韓国に有利だった。ただ、韓国に対してビビっている選手がいたのも事実。あぁ、この人たちはコンプレックスを持っているんだなぁと実感したね。このままじゃ、何度やっても韓国に勝てないと。敗戦の責任を監督に負わせるべきじゃなかった。選手たちの腰が引けて負けたんだから。どうしたら選手たちの意識を変えられるか、プロ意識を持たせることができるか。その点を考えて、プロの監督(オフト)を連れてきたんじゃないかな。

――そのオフト監督とは当初、折り合いがあまり良くなかったですね。

 好きじゃなかったのはオフトというよりも戦い方の方。南米のスタイルの方が自分たちに合うんじゃないかなと思っていたからね。だから、これは違うなと。意見も言いましたよ。日本リーグで長くプレーしていたので、自分の中で、こういう選手たちを呼んだら、もっと強くなるだろうと思っていた。だから、どんどん不満が募って……。やる気もあまりなくて、正直、プロらしくなかったね。で、ある時、練習メニューもつまらなくて、オフトが指笛で集合をかけたときに「お前の犬じゃない!」と。当時の通訳がそれをそのまま伝えちゃってね。でも、オフトは格好良かった。何も言わなかったから。

 ただ、柱谷に言われたね。「ラモスさん、あなたはオフトがやろうとしていることをしていない。まずは信じてやってみて、ダメだったら、ラモスさんと一緒に自分も代表を辞める」と。確かに、チームの雰囲気を悪くしていた原因のひとつが自分だったなと。

――何がきっかけで、オフト監督への信頼が深まったのですか。

 オランダ遠征のときですよ。今でも覚えている。2部リーグのクラブと2試合、練習試合が組まれた。それを聞いて、俺たちは代表だぞ! と。そうしたら、練習の後にオフトに呼ばれてね。

「お前の言うことはわかる。お前や柱谷たちが試合中にファイトしているのもよくわかっている。ただ、今の日本代表に足りないのは1対1でファイトすることだ。それがわかっていない。だから、選手たちはそれを体で感じる必要があるんだ」と。

 確かに、その練習試合で相手の選手たちが本当に激しかった。それを見て「なるほど」と思ったね。すごいなと。日本に何が必要なのか。オフトはよくわかっていたんですよ。あれで目が覚めました。オフトのことを心底信じるようになった。最高の男なんじゃないかなと。惚れちゃったね。最高の監督。今でも、そう思っている。

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