連載:高校サッカー選手権 名将の哲学

国見で高校サッカー選手権6度の優勝 名将・小嶺氏は弱小校をどう強化したのか

栗原正夫

選手に対しては、感謝の気持ちしかない

87年に初優勝。以降90年、92年、00年、01年、03年(写真)と優勝を重ねてきた 【栗原正夫】

 国見就任3年目の86年に、冬の選手権に初出場。決勝では静岡の東海大一に敗れて準優勝に終わるも、翌年は同一カードとなった決勝で見事に借りを返し、初優勝を果たした。

 以降90年、92年、00年、01年、03年と優勝を重ねてきたのは、サッカーファンの知るところである。

「もし新任で国見に行っていたら難しかったでしょう。でも、私には島原商での指導キャリアがありましたし、国見町には多比良小学校、国見中学というサッカーの盛んな学校があったのもラッキーでした。

 優勝の喜びはどの年も一緒です。人間は一度壁を破ると、意外とコツを覚えるものです。とはいえ、勝負の世界は勝ち負けがどう転ぶかわからない。優勝を狙えると思いながらころっと負けることがあれば、その逆だってあります。ましてや、選手権はトーナメントですから。だからこそ、足をすくわれないように注意深く指導してきました。

 いつだったか、暁星の林義規監督に『あまり勝ち過ぎると友人がいなくなるよ』と冗談半分で言われたことがあります。ただ、多くの勝利を手にできたのは私だけの力ではないし、選手がいなければ成しえなかったこと。彼らがいなければ私の人生はなかった。だからこそ、いまでも感謝の気持ちは忘れられません」

国見の強さを支えた、マイクロバスでの全国行脚

 チームを強化するなか、小嶺氏は選手に厳しい練習を課したほか、学校が休みの日は自らマイクロバスのハンドルを握って試合行脚に出たことも有名な話である。

 国見の初優勝時のメンバーで、長くJリーグでも活躍したMF永井秀樹(50、元東京ヴェルディなど)は、かつて国見の強さについて「小嶺先生のバスを運転している姿を見てきたからこそ、ギリギリの勝負のなかで先生のためにという気持ちで戦えた」と話していたことがあった。

「いまではマイクロバスで遠征に行くのは当たり前ですが、私はその第1号でした。ただ、大型免許を取り、自費でマイクロバスを購入したものの、当初は事故を起こしたら大変だと学校に猛反対されました。校長に呼ばれて、『オマエが事故を起こしてクビになるのはいいけど、オレまでクビになるからやめてくれ(笑)』と。それでも、電車で毎回移動するお金はなかったですし、県外の強豪チームと練習試合をするには、それしか方法がなかったんです。朝5時に出て夜10時に戻ってくるなど学校には内緒で行ったこともありました。

 ルールを破ることはいけないですし、『小嶺さんはやり過ぎだ』と言われたこともありましたが、結果を出すことで徐々に周囲の理解を得られるようになりました。最初は苦労もありました。だから、選手にはこんな風に言ってきました。出る杭は打たれるから、打たれないところまで伸びろ、と」

03年に国見を離れ、11年からは長崎総科を指揮する小嶺氏 【栗原正夫】

 76歳となったいまも、学校が休みの日にはマイクロバスで試合に出かけるスタイルは変わらない。ただ、高齢になったこともあり、昨年以降は保護者会からの補助もあって運転手は別につけている。

「国見時代は、夏休みには約1カ月遠征に出ていました。さすがに北海道までは行かなかったですが、山形や岩手までは行きました。それで1日に3試合から5試合をこなすスケジュール。当時は九州に高速道路がなくて福岡まで片道5時間、新潟あたりまでだいたい24時間かかりました。最初の頃はホテルに泊まれないので、夜は学校やお寺で雑魚寝。バスにも、エアコンはなかったです。もちろん、時代を経て環境は徐々によくなっていきましたが、そうした行脚のおかげで試合数は年間軽く100は超えていましたし、多くの実戦を積んだことがレベルアップにつながったのは間違いありません」

 国見のサッカーといえば、黄と青の縦縞のユニフォームを着た坊主頭の選手たちが、スタミナとフィジカルで相手を圧倒する。そんなステレオタイプのイメージが刷り込まれているかもしれない。ただ、小嶺氏は決して闇雲に厳しい練習を選手に課してきたわけではないと強調する。

「最初にタイトルを取った頃は、伝統がなかったぶん、厳しく鍛えなければいけなかった。ただ、それは大昔の話です。あるとき、私が毎日20キロも選手を走らせているかのような言われ方をしたときもありましたが、そんなことをしたら選手の体は持ちません。

 私もコーチングライセンス(JFA公認S級)を取得しましたし、選手にどれくらいの負荷をかけるべきは把握しています。もちろん、毎年春先までの筋力強化をする時期には3日に1回くらいは持久走を入れていますが、普段は週に1回だけ。だから、よく他校の監督さんが私の練習を視察に来て、想像と違っていたのか『これだけしか練習していないんですね』と拍子抜けしていたほどです。OBの選手が自慢げに学生時代に走らされたエピソードを話しているみたいですが、それはテストで赤点を取ったり、何か悪さをしたときのペナルティのことでしょう。罰走は通常の練習とは別ですから、そんなときは走らせていましたけどね(苦笑)」

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プロフィール

小嶺忠敏(こみね・ただとし)
1945年、長崎県生まれ。大商大を経て、68年に島原商のサッカー部監督に就任し、77年インターハイで長崎県勢として初優勝。84年に国見に転任すると86年度から06年度まで21年連続で冬の選手権に出場し、87年度の優勝を皮切りに戦後最多タイの6度の優勝を遂げた。06年3月に定年退職のため国見を離れ、11年から長崎総合科学大学附属高サッカー部で指導。現長崎総合科学大学教授、長崎県サッカー協会名誉会長

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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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