甲子園に愛された男・桧山進次郎の応援論 「桧山ダンス」と好きな応援歌を語る
1990年代の低迷期も、2000年代に迎えた黄金時代も、阪神ファンは22年間変わらぬ応援歌で桧山進次郎を支え続けた。ときに厳しいことでも知られるが、チームへ注ぐ愛情はとても深く、温かい。 【写真は共同】
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阪神ファン名物「手のひら返し」!?
はい。自分専用の応援歌を作ってもらえるのは、プロ野球選手冥利に尽きると思います。応援歌とともに、甲子園のライトスタンドで僕の名前と背番号が大きく書かれた応援旗が初めて披露されたときのことは、今でも鮮明に覚えています。「ようやく僕もプロ野球選手として認められたのかな」と思いました。
ただ、ネクストバッターズサークルから打席に向かうときは、球場に響く桧山コールがよく聞こえたんですが、打席に入ると集中するので、不思議と声援が聞こえなくなります。後でそのときの様子を映像で観ることで、「僕はこんなすごい声援を受けていたのか!」と初めてわかるんです。また、オフに行われる阪神ファンの集いなどのイベントでは、僕の応援歌をじっくり聞かせてもらうこともありました。試合以外のところで応援歌を聞くことで、そのありがたみを実感することが多かったです。
――阪神ファンがチームに抱く愛情と注ぐ熱量は12球団屈指ですが、同時に厳しいことでも知られています。チャンスで凡退したり、ミスをしたときに辛らつな野次が飛んだことはありましたか?
90年代の阪神は暗黒時代で、連敗が続くことが珍しくなかったので、いろいろありましたね。当時の阪神は、投手こそ良かったものの、野手は打てない、守れない。チャンスが到来し、阪神ファンがメガホンを持って応援しようと構えても、あっさり三振して終わってしまう。僕の守備位置は熱心な阪神ファンを背にするライトだったので、チャンスで凡退した直後に守備につくと、それはもういろんな声(野次)が聞こえてきましたよ。
阪神ファンは厳しい一方、チャンスで結果を出したときの大声援は本当にすごかった。打った直後にライトスタンドから鳴り響く桧山コールを聞く喜びは、筆舌に尽くしがたいものがありました。その余韻に浸っていたくて、あえて何回か桧山コールをもらってから、帽子をとってファンに応えていました。本当は早く帽子をとらないといけないんですけどね(笑)。
ヤクルト、巨人、阪神と3球団に在籍した広沢(克実)さんは、一番プレッシャーを感じたのは巨人ではなく阪神だったと話していました。前日に逆転ホームランを打っても、次の日にチャンスで凡退すれば容赦なく厳しい声が飛ぶのは当たり前。その一方で、3打席3三振と全くいいところがなくても、4打席目で逆転打を打てば大歓声が祝福してくれる。天国と地獄のようだと言っていました(笑)。
――「手のひら返し」は阪神ファン名物とも言われています(笑)
阪神は長い歴史を有するチームですが、優勝回数は決して多くないし、ライバルの巨人の後塵を拝して悔しい思いをすることの方が多かった。僕も幼い頃から阪神ファンとして育ってきたので、その気持ちはよくわかります。それでも阪神ファンは決して見捨てることなく、僕たちのことを応援してくれる。本当にありがたかったです。
※2リーグ制を導入した1950年以降、阪神がリーグ優勝を果たしたのは62年、64年、85年、2003年、05年の計5回。日本シリーズ制覇は85年のみ。
代打・桧山が初球をあえて見送った理由
レギュラーだった頃は1試合に4、5回は打席に立つ機会があったので、その分だけ応援歌を歌ってもらえましたが、現役生活の晩年に代打に回ってからは1試合1回限りになりました。
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