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“伝説のスーパーサブ”森山泰行の矜持
ピクシー、ヒデ…最高のパサーは誰か?

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名古屋時代の“スーパーサブ”は森山泰行の代名詞。短い時間でゴールを量産し、強烈なインパクトを残した
名古屋時代の“スーパーサブ”は森山泰行の代名詞。短い時間でゴールを量産し、強烈なインパクトを残した【(C)J.LEAGUE】

 名古屋グランパス時代、特に1994年から96年にかけて3シーズン連続で二桁ゴールをマークするなど森山泰行は、流れを変える“スーパーサブ”としてJリーグで強烈なインパクトを残した。


 171センチと小柄ながら、俊敏な動きと飢えた獣のように貪欲にゴールを目指す姿は、まさにストライカーという名にふさしく、右足、左足、頭とどこからでも得点を狙えるのも魅力だった。


 名古屋(92〜97年、2001〜02年、04年に所属)で最も長い時間を過ごしたが、98年以降はスロベニアのヒット・ゴリツァを含め、04年の最初の引退までにのべ7クラブを渡り歩いた。


 その後、05〜08年にかけてはFC岐阜で一度現役復帰し(選手兼助監督、取締役)、現在はJFLのFCマルヤス岡崎で3度目の現役生活(選手兼チームディレクター)を送っているが、森山は第一線で活躍していた当時をどう振り返るのか。

際立ったゴールへの強いこだわり

 中学まではペレやマラドーナに憧れたドリブラータイプのFWだったというが、帝京高、順天堂大でよりゴールを奪うことに特化するストライカーとしての才能が開花。Jリーグでもその独特なゴール感覚は際立っていた。


「ゴールを意識してポジションを取ることはもちろんですが、味方がボールを持ったときに『どのタイミングで動けばパスが出てくるか』は常に考えていました。ゴールは動かない。自分と味方と相手がいて、どうやったらゴールが生まれるのか。大事なのはシュートが打てるポジションに、いかに良いアングル(角度)と良いタイミングで入れるか。一度目でパスが出てこなければ、二度目に備える。思考を止めることはなかったですね」


 前線で無我夢中に走り回るというより、常に冷静に戦況を把握し、ここぞと思ったときにパワーを爆発させる。まさしく獲物を狙う獣のようだ。

 

 森山はスルーパスからのシンプルなワンタッチゴールが一番好きな形だと言うが、低いクロスにも頭で飛び込むような泥臭いイメージも残っている。


「ダイビングヘッドって派手に見えますが、自分の目に一番近いところでボールを捉えられるので、足よりも絶対に確実なんです。だから、頭で行こうとすると勝手に体も反応する。調子が良くないときこそ、頭で行くようにしていました」


 良いタイミングでセンタリングさえ上がってくれば、あとは飛び込むだけ。パスの出し手への要求は、とにかくタイミングだけ意識してくれということだった。


「後ろにズレると難しいですけど、コースは多少アバウトでも問題ない。出し手には、とにかくゴールが決まれば、どんなボールでも良いクロスになるから、と言っていました(苦笑)」

スーパーサブとしての葛藤と割り切り

森山が活躍したのは、ベンゲル監督が率い、ストイコビッチ(左)が躍動した時代。途中出場で流れを変える役割を担った
森山が活躍したのは、ベンゲル監督が率い、ストイコビッチ(左)が躍動した時代。途中出場で流れを変える役割を担った【(C)J.LEAGUE】

 94年、出場39試合のうち33試合が先発で13ゴール。95年、出場42試合のうち27試合が途中出場で14ゴール。96年、出場26試合のうち24試合が途中出場で11ゴール。


 上記は、94〜96年の森山のJリーグでの出場試合数とゴール数である。


 主に名将アーセン・ベンゲル監督が率いた95〜96年にかけては、途中出場が多かったものの、決定力の高さは光った。一方で94年には先発として一定の結果を出し、その後もピッチに立てばゴールを積み重ねていただけに、ベンチスタートが多かった状況に葛藤があったとしても不思議ではない。“スーパーサブ”という評価をどう捉えていたのか。

栗原正夫

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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