F1の時代を席巻した“白赤”の伝説 マクラーレン・ホンダの盛衰を振り返る
「レースはホンダの企業文化」
F1ファンの心に残る白赤。いまだ破られない「16戦15勝」のマクラーレン・ホンダの軌跡を振り返る 【Getty Images】
ホンダエンジンを搭載したマシンが活躍し、87年からF1中継が開始された日本にもF1が浸透していった。特に白赤の“マルボロカラー”のマシンが心に残っているファンは多いのではないだろうか?
78年に行った記者会見で、当時のホンダ社長である河島喜好氏がそう発表した。ワークスチームとして参戦した第一期のF1活動終了から10年が経っていた。
エンジンメーカーとしてF2で実績を積み上げてから、F1に挑戦するという方法を採ったホンダは、81年にヨーロッパF2を制覇。83年にスピリットにエンジンを供給するという形でF1復帰を果たした。この年の最終戦からは、名門ウイリアムズとも提携し、エンジン供給を開始した。
ウイリアムズとともに、ホンダはF1での立ち位置を築き上げた。84年のアメリカGPでケケ・ロズベルグが優勝。85年には、ナイジェル・マンセルがウイリアムズ・ホンダで自身初優勝を飾り、86〜87年にはマンセルとネルソン・ピケのコンビで、コンストラクターズタイトルを連覇したのだ。
強力なエンジンサプライヤーへと成長したホンダは、87年からロータスにもエンジンを供給。ロータスのドライバーは、日本人初のフル参戦F1ドライバーとなった中嶋悟と、あのアイルトン・セナだった。
いまだ破られない“16戦15勝”の記録
セナとアラン・プロストという優れたドライバー、理想的なデザインチームとマネジメント陣、パワフルなホンダV6ターボエンジン、そして完璧なシャシーを持ったマシン。当時のマクラーレン・ホンダは、最強となるために必要な全てのピースを持ち合わせていたのだ。
88年シーズンを文字通り支配したマシン、マクラーレン・ホンダ『MP4/4』は16戦15勝を達成。その勝率は、現代F1を席巻しているメルセデスでさえも破ることができていない記録だ。毎戦のようにバトルを繰り広げたセナとプロストは、世界中のファンを魅了した。
両者がチャンピオン獲得の権利を残したまま、第15戦・日本GPへ。予選ではセナがポールポジションを獲るが、スタートでエンジンストールし後方からの追い上げを強いられる。しかし、次々とオーバーテイクを決めたセナは、レース前半のうちに2番手まで浮上すると、ピットウォールすれすれの攻防戦の末、プロストをも攻略。初のチャンピオンに輝いた。鈴鹿でのF1開催2年目のこの激闘を目にした日本のファンは、彼の虜(とりこ)になった。