連載:生涯現役という生き方

ムタ、徹底したヒールを演じてブレイク 善玉の武藤敬司との別人格を使い分け

武藤敬司
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第5回

武藤敬司の面影を消すために、流血戦もいとわない圧倒的なヒールを演じることでブレイクしたグレート・ムタ 【写真:ロイター/アフロ】

 WCWでムタになった時、その登場はまさにチラリズムだった。毎週のテレビ放送で少しずつ、少しずつ正体を明かしていく。
 むこうのプロレスはストーリーをこれでもかってぐらい引っ張るからね。
 毒霧にしたって最初の週は緑の液体が口からたらっと垂れる。それだけ。
「あれは何だ」って観ている人は思うわけ。翌週は垂れた液体をぺろっと舐める。結局、毒霧をプーッと吹くのなんて一ヶ月くらい後の話。
 むこうはそういうプロレスの順序をすごく大切にする。キャラクターは時間をかけて作り上げていくものという認識が強いし、個性の打ち出し方ひとつで、人気者になるか、ならないかが変わってしまうことも知っている。
 試合だってムタは最初の一ヶ月はリング上に立ってるだけ。動かない。
 次の一ヶ月は相手の顔に毒霧を吹いて、すかさず1・2・3とフォール勝ちを奪う。
 やがてWCWのトップであるスティングと闘うまではメチャ強かったよ。4対1の試合をやったりして、一人ずつフィニッシュ・ホールドを変えて見せていった。一人はカマ固め、次は首四の字でタップを取るとか。四人と順番に闘ってるこっちは、モグラ叩きをやってるみたいだった。

 WCWでは年間に300試合くらいやってた。
 アメリカは国内で時差があるし、1時間くらいの時差って体調作りが面倒くさくてね。新日本の場合は全盛時で年間250試合くらいだったな。テレビの収録日なんて一日4試合くらいやって、同じ会場で一ヶ月分を撮り貯めしておくからね。みんなそれもフィニッシュを変えてさ。
 あの頃、よく体が持ったよな。まあ独身だったし、休日も特にすることがないから、仕事が多くても平気だった。ただ一日4試合やるとペイントが持たない。最初の頃のメイクの塗料は、ポスターカラーみたいなものを使ってた。スティングとかザ・ロード・ウォリアーズも同じペイントを使ってたけど、試合の途中でてらてらになって割れてくるんだよね。ペイントがすぐ落ちてきて大変。だから毎試合ごとに顔を塗ってた。今はもう少しいい塗料があるので、途中で剥がれる心配はいらないけど。

ムタも日本風にアレンジ

 グレート・ムタの人気がアメリカで上がっていくと、そのムタの試合を新日本のリングでも見せたいということになった。初めてのムタ、日本マット見参は1990年9月。越中(詩朗)さんとの闘いだった(海外時代のサムライ・シロー名で登場)。
 でもこれがしくじっちゃった。中途半端な試合に終わってムタの醍醐味を全く魅せられなかった。
 そこにいたのはムタじゃなくて武藤敬司だったんだよ。
 やっぱりアメリカのマットと全然環境が違うから、いきなり別人格のムタにはなれなかった。というか、アメリカでは別人格じゃなくてムタだけがいるんだけどね。日本の方が使い分けしなくちゃいけないから面倒くさかったよ。

 それで反省して、次の試合をどうしようか考えあぐねていた。
 ムタの第2戦は馳浩戦だった。
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著者プロフィール

1962年生まれ。山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専仙台接骨医療専門学校)に進学。柔道整復師の資格を取得するとともに、柔道で全日本ジュニア体重別選手権大会95kg以下級3位となる。21歳で新日本プロレス入門、1995年、第17代IWGPヘビー級王者となる。2002年、全日本プロレス入団、同年10月には社長に就任。2013年同団体を退団し、WRESTLE‐1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役社長となる(2020年4月、WRESTLE‐1は活動休止)。

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