近鉄を失い16年、ホーム最終戦を振り返る 「本当のラスト」はあの日ではなく…

三和直樹

スタンドには球団への熱い思いや、合併反対を訴える横断幕が掲げられた 【写真は共同】

 プロ野球にはたくさんの名勝負・名場面が存在する。今回は2004年に消滅した大阪近鉄が本拠地最終戦に臨んだ9月24日の西武戦にスポットを当てたい。近鉄ファンだったライター・三和直樹さんが振り返る。

喧騒の中で迎えた本拠地最終戦

 2004年――。完全アウェーの中国でアジアの頂点に立った宮本恒靖が優勝カップを掲げ、酷暑のアテネ五輪では野村忠宏、谷亮子、北島康介、野口みずきら、日本が史上最多タイの16個の金メダルを獲得。MLBではイチローが年間最多安打記録を84年ぶりに更新したその年、近鉄ファンにとっては、突如として沸き起こった球界再編騒動の中で、これまで味わったことのない虚無感と無力感に苛まれることになった。

 発端は6月13日だった。日本経済新聞が朝刊一面で「近鉄球団、オリックスに譲渡交渉」と報じると、その日の昼過ぎに近鉄本社が会見を開いて「合併の基本合意」を認める。最終的に9月8日のオーナー会議で正式に承認されることになったが、その間、選手による署名活動およびファンの反対運動にライブドア社の球団買収表明、さらに「第2の合併計画」と「10球団1リーグ制構想」などが浮上。そして巨人の渡辺恒雄オーナーの「たかが選手が」発言もあった中、球団側と選手会の労使交渉は決裂し、9月18日、19日にはプロ野球史上初のストライキが決行された。その荒療治を経て、9月22、23日の労使協議で、翌年へ向けての「来季の12球団維持とそれに向けた新規参入球団の審査開始」が決まった。

 表面上、ストライキを経て選手会の要求が通った形となったが、近鉄とオリックスの球団合併の話はなくならなかった。当然、近鉄ファン(オリックスファンも)は納得できていない。「本当に消滅するのか?」。気持ちの整理がつかないまま、2004年9月24日、大阪ドームでの西武戦を迎えることになった。

掲げられた横断幕と中村紀洋のフルスイング

 近鉄の本拠地ラストゲーム。内外野の自由席が無料開放された球場には、最終的に4万8000人のファンが詰めかけた。先発ピッチャーは35歳のベテラン右腕・高村祐。大村直之、水口栄二のおなじみの1、2番に、礒部公一が3番。チームの顔である中村紀洋が4番に座り、5番には3年前に「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」を放った北川博敏が入った。

 スタンドはさまざまな感情で渦巻いていた。「ありがとうバファローズ」、「これからもずっと好きやねんバファローズ」といったものから、「球団合併断固反対!」、「選手・ファンを無視した合併は許せない」というものまで、数々の横断幕が掲げられた。18時プレイボール。梨田昌孝監督が「いろんな思いがあると思うけど、それをひとつずつ確かめながら、野球を楽しんで!」と手を叩いて選手たちを送り出す。ベンチ前で「近鉄らしい思い切った野球で、最後を締めましょう!」と選手会長・礒部の声が響いた。

 試合は接戦になる。近鉄が2回裏に藤井彰人のタイムリーで1点を先制するも、西武が3回表に大島裕行、5回表に野田浩輔とソロ本塁打2本で逆転に成功する。そして6回裏には2番手として志願のマウンドに上っていた西武・松坂大輔に対し、近鉄の4番・中村が打席に入る。松坂が初球149キロから、2球目150キロ、3球目149キロとすべてストレートでの真っ向勝負を仕掛けると、それに対して中村が渾身のフルスイングで応える。結果はセカンドゴロ。02年オフのFA宣言と高額年俸で、当時の“ノリ”には一部で批判の声もあった。だが、そのフルスイングには間違いなく “猛牛魂”が込められていた。

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著者プロフィール

1979年1月1日生まれ。大阪府出身。学生時代からサッカー&近鉄ファン一筋。大学卒業後、スポーツ紙記者として、野球、サッカーを中心に、ラグビー、マラソンなど様々な競技を取材。野球専門誌『Baseball Times』の編集兼ライターを経て、現在はフリーランスとして、プロ野球、高校野球、サッカーなど幅広く執筆している。

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