連載:Jリーグ・クラシック

G大阪との頂上決戦「雰囲気を味わって」 鈴木啓太が語る“レッズ黄金時代”

飯尾篤史

2006年、悲願のリーグ優勝を果たした浦和。鈴木啓太が当時を振り返る 【写真:アフロスポーツ】

 温故知新――故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る。

 新型コロナウイルスの影響でJリーグが中断して2カ月がたった。Jリーグのない日々が続き、明るい未来はいまだ見えてこない。それでも……Jリーグには27年の歴史がある。こんな状況だからこそ、レジェンドたちの声に耳を傾けたい。新しい発見がきっとあるはずだ。

 第4回は2006年の浦和レッズにスポットを当てる。ギド・ブッフバルト体制3年目となるこの年、新加入のワシントンらの活躍もあり、悲願のリーグ初制覇に向けて浦和は力強く白星を重ねていく。そして迎えたリーグ最終節、2位のガンバ大阪との頂上決戦が実現した。DAZNのRe-Liveでも放送中のこの大一番に向け、選手たちはどのような心境だったのか。当時の中心選手であり、Re-Liveの解説を務める鈴木啓太さんに振り返ってもらった。

守備力が光った浦和。ポンテとは「ずいぶん口論した」

06年シーズンは「非常にバランスの取れた精神状態でシーズンを迎えた覚えがある」と鈴木 【スポーツナビ】

――2006年シーズンはギド・ブッフバルト監督就任3年目。浦和レッズは04年シーズンにチャンピオンシップ準優勝、05年シーズンに2位となり、悲願のリーグ制覇にあと一歩まで迫っていました。

 チームのサイクルはよく、3年から5年って言われるんですけど、ギドさんの前、オフト監督時代の02年からチームのベースが作られていたんです。オフト監督自身も「3年で結果を出す」と言っていたんですけれど、予定が変わって、04年にギドさんが監督に就任した。だから、06年はギドさんの3年目ではあるんですけど、レッズにずっといる僕としては5年目という感覚だったんですね。だから、絶対にリーグ優勝しないといけないなって。

 03年にナビスコカップを獲って、04年にチャンピオンシップに出場。05年はリーグ2位だった。それまで積み重ねてきたものに対して自信を持っていると同時に、チャレンジャーだということも分かっていた。非常にバランスの取れた精神状態でシーズンを迎えた覚えがあります。

――05年夏に絶対的エースだったエメルソンが移籍し、06年はワシントンが加わりました。この年、浦和は開幕直後から8試合無敗とスタートダッシュに成功します。エメルソンとワシントンはまったく異なるタイプでしたが、ワシントンはスムーズにチームになじんだ印象です。

 いや、やはり最初のうちは難しかったですね。それまでの浦和はどちらかと言うと、堅守速攻が武器だったので、ワシントンがどれくらいフィットできるか、正直分からなかった。実際に一緒にプレーしてみても、得点王に対して言う言葉じゃないかもしれませんけど、ペナルティーエリア周辺以外では特別すごいわけではなかった(笑)。なので、最初のうちは「難しいな」と感じていました。

 ただ、ゴール前での強さ、フィニッシュの部分は間違いなく素晴らしかった。だから、自分たちがしっかりとお膳立てをして、とにかく最後の部分をワシントンに任せようと。ワシントンも最初のうちは、いろいろなところに顔を出して、「俺に寄こせ」みたいな感じだったんです。でも、「いや、ゴール前だけでいいよ」と。そんな風に思っていましたね。

――5月半ばにはドイツ・ワールドカップのためにリーグが中断します。この時点で浦和は2位。特に際立っていたのが守備力で、12試合でわずか9失点。しかも6試合で完封しているんですよね。鈴木さん、田中マルクス闘莉王さん、坪井慶介さん、堀之内聖さんの守備陣の安定感が光っていました。

 坪ちゃん、闘莉王、堀さん、あと僕の隣にいた長谷部(誠)とはずっと一緒にやっていたので、今は引いて守るべきなのかとか、前から行くべきなのかとか、共通認識はしっかりしていましたね。

 でも、後ろだけで守れるわけではなくて。前の選手たちにも守備に参加してもらえるよう、コミュニケーションをしっかり取っていました。前の選手たちって、ディフェンスをするのが好きじゃないと思うんですけど、「いい形でボールを取れれば、君たちにいいボールを供給できるから」っていう話をよくしていたんです。チーム全体で守る意識は、すごく高かったと思います。まあ、どこで奪うか、どう奪うかっていう部分で、僕の前にいたロビー(ロブソン・ポンテ)とはずいぶん口論しましたけどね(笑)。

サッカー選手はボールを持つのが好きだと思うけれど……

五輪代表でもチームメートだった闘莉王(右)とは、「需要と供給が合っていた」と鈴木は笑う 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

――このシーズンも闘莉王さんの攻撃参加が大きな武器になっていました。その際に鈴木さんが「後ろは任せろよ」と言わんばかりに、後方のスペースをケアしていた。ふたりの関係性も阿吽(あうん)の域に入っていましたね。

 闘莉王とはオリンピック代表の時から一緒にやっていましたからね。彼の攻撃面での貢献は、僕よりも高いことは分かっていた(笑)。だから、「好きに行っていいよ」って。僕は、ボールを持つよりも、うまい人たちが攻めるのを見るのが好きでしたから(笑)。

 普通、サッカー選手ってほとんどがボールに触りたいと思うんですよ。でも僕は、どうやってボールを取るのか考えたり、取ったらできるだけ早く味方に預けて、見守るほうが好きだった。だから、闘莉王とは相性が良かったんだと思います、需要と供給の(笑)。闘莉王は前に行きたい。僕はそれを支えたい。そういう関係を築けてから、闘莉王はどんどん行くようになりましたね。

――リーグが再開すると、田中達也さんが負傷から復帰していきなりゴールを決めたり、坪井さん、堀之内さんが負傷離脱しても、内舘秀樹さんやネネが穴を埋めるなど、総力戦で勝利をモノにしていきます。小野伸二さんや酒井友之さんがベンチに控えていて、とにかく選手層が厚かった。

 シーズン前には毎年のように代表クラスの選手が入ってきましたから、内心、ドキドキでしたよ(苦笑)。まずはチーム内の競争に勝つことが第一歩というか。特に伸二さんが帰ってくるという話を聞いた時は、「フザけんなよ」って思いましたもんね、フロントに対して(笑)。

 もちろん、伸二さんは僕にとって静岡の先輩で、背中を追い掛けてきた憧れの選手。一緒にプレーできたらいいなと思いつつも、いざ、チームに戻ってくるとなったら、ライバルになるわけですし、フロントは、今の中盤に対して不満があるのかと。

 でも、その時、自分の成長を認識できたんですよね。僕が2000年に浦和に入った時、伸二さんはライバルなんて言うのがおこがましいくらい雲の上の存在でした。その後、伸二さんは移籍して、僕は出場経験を積んでいった。伸二さんが戻ってくると聞いた時、なんで? ってフロントに疑問を抱いた反面、伸二さんのことをライバルだと思えるくらいまでに自分は成長したんだって。そんなことも感じられたんです。

――25節に首位に返り咲くと、その後は最後まで首位を走るわけですが、優勝のプレッシャーは、いつ頃から感じていましたか?

 プレッシャーとは常に戦っていましたけど、試合をするのがちょっと怖いな、と感じたのは(最終節の)ガンバ(大阪)戦ですね。(ジュビロ)磐田や名古屋(グランパス)に負けたりしましたけど、それでも自分たちが優勝するんだ、という気持ちが揺れることはなかったですし、自分たちが優勝することを疑うこともなかった。それが実際に、この1試合で決まるという段階になって、緊張感が走りましたよね。

――ガンバは05年のリーグチャンピオンでしたが、当時のガンバの印象は?

 ガンバは本当に強かったですよね。浦和とはスタイルがちょっと違って、だから、やりにくいということではなくて、いい選手がたくさんいたし、ガンバ戦では何が起こるか分からない。そんな怖さがありましたよね。

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著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

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