クラブの破綻、漬物ビジネス転身の先に…レバンガCEO横田陽と折茂武彦の絆
Bリーグ屈指の人気クラブとなったレバンガ北海道 【(C)B.LEAGUE】
レバンガ北海道の横田陽代表取締役CEOは07年に立ち上がった「レラカムイ北海道」の 立ち上げに奮闘し、クラブの破綻も経験した。いったんスポーツビジネスから離れた彼は、折茂武彦に呼び戻されて札幌に戻る。イチ営業マンから再起した彼は、Bリーグ発足を前に大きな決断を下す――。
横田と折茂の絆があったからこそ、レバンガの今もある。レラカムイ時代も含めて、苦闘と今、そして二人の秘話を明かしてもらった。
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2007年、レラカムイに転職し「中の人」に
あまり語ってこなかったという、過去の経緯を話してもらった 【大島和人】
苦渋をのぞかせつつ静かに述べるのは、北海道の横田陽代表取締役CEO。折茂とともに、札幌の地でプロバスケットボールクラブの苦難と浮上を経験してきた男だ。
横田は北海道釧路市の出身で、札幌大時代はバスケットボール部にも所属していた。卒業後は月寒グリーンドーム(北海道立産業共進会場)などの施設を管理する財団法人の職員として、コンサートや展示会などのイベントにも関わっていた。
そんな中で彼は06年に札幌大で開催された、故・広瀬一郎氏の主催する「スポーツマネジメントスクール」に参加。そこでプロバスケットボールクラブ「レラカムイ北海道」の法人を設立し、07年の参戦に向けて動いていた水澤佳寿子社長と出会う。
「何かの席で『ホームゲーム会場が無い』という話になって、そのときに『ウチ使いませんか?』と言ったら『面白いね』と。そこから1年くらい動いて、何とか内部も説得して。使える環境を整えたんです」
しかし開幕を直前に控えた07年夏、彼を真駒内の施設に異動させる内示が出た。それを機に横田はレラカムイへ転職し、「中の人」として新クラブを立ち上げることになる。
横田が記憶している当時の社員数は6名。「記憶にないくらいやることがたくさんあった」という。プロスポーツ、プロバスケの知識を持つ人材がいない中で、スムーズに進まない作業も数多くあった。
マンパワーが必要な作業を使命感で耐えていた
「僕らが手弁当でやっていたからこそ、マンパワーが必要な作業は非常に多かった。お金を掛けられないから、自分たちでやらなければいけない。自分たちの時間を犠牲にするしかないところはありました。今考えると、労働生産性という考え方や、業務効率という発想などなく……。でも使命感と言うか、誰もやっていないことを自分たちがやっているという、そこだけで耐えていたのかもしれないですね」
3季目に入ると観客数が減り、資金繰りや経理面の問題も浮上してきた。
「毎月のように返済計画書を作っていた記憶があります。典型的な麻痺(まひ)していた時期ですね。俯瞰(ふかん)で自分を見ることができず、とにかくやることをやらないと会社、クラブ、選手が……という発想だったと思います」
レラカムイの破綻、横田は転職して東京へ
2011年、経営悪化によりレラカムイはリーグから除名。チームはレバンガ北海道として新たな船出を切った 【写真:アフロスポーツ】
「新チームの立ち上げの際は、震災の影響もあって大変な状況とは聞いてました。自分もチームを消滅させた張本人なので、そんな人間がいても迷惑をかけるし、折茂もその思いは一緒でした。折茂からは『一度外の世界を見てこい』と言われたんですよ。『何かあったら呼ぶから』という言葉をその時に言われていましたが、自分の中では社交辞令だと思っていました」
横田の転職はスムーズに決まった。
「漬物日本一の大会をしたいんだよね……という突き抜けたアイデアを持っていた社長さんがいました。実績はあるんですか? と言ったら『札幌のスーパーで去年やったんだよ』というレベル。それを今年全国展開したいと言われたんです」
彼は「T-1グランプリ」と称された漬物の販売イベントを軌道に乗せ、東京で充実した日々を送っていた。そんな彼が折茂からアプローチを受けたのは13年。レバンガの運営を社団法人から株式会社に切り替えるタイミングだった。折茂にとって11年の言葉は社交辞令でなかった。
「東京まで来てくれて、手伝ってほしいと言われました。私も当時の仕事が順調だったので、当時の会長に言ったら『そんなすぐには辞められない。1年やって引き継いでからにしてほしい』と言われましたが、それを折茂に伝えたら再度会長と東京で会ってくれて『1年待ちます』と言ってくれました。『1回外を見てこい、何かあったら戻す』とは、こういうことだったのかな……と思いました」