北の大地でプロバスケと経営者の二刀流 49歳レジェンド・折茂「常に厳しかった」
しかしその道程は曲がりくねり、険しく、ときに進路さえ見えなくなるものだった。折茂は環境の恵まれた実業団チームから、37歳で新興のプロクラブに飛び込んだ。彼はその後クラブの消滅を経て、レバンガ北海道という新たなクラブを創る。厳しい経営状態に耐え、踏みとどまり、ようやく経営に手応えを感じられるときを迎えた。生半可では無い苦難を乗り越えた日々を、本人と当事者のコメントを元に振り返る。
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来道しカルチャーショックを受けた
49歳・折茂武彦、今シーズン限りで引退を表明しているバスケ界のレジェンドだ 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
東野はトヨタ自動車、日本代表のアシスタントコーチを歴任し、当時はフリーだった。二人の会話で浮上した補強候補が、今もレバンガでプレーする折茂武彦と桜井良太。トヨタ時代にはそれぞれ東野とコーチ、選手の関係だった。下出は振り返る。
「話をしているうちに『折茂を引っ張ってこれる』と言ってきた。二人(東野と折茂)は同い年だし、仲もいいんです。『もちろんお金は必要だよ。トヨタから取るんだから』という説明でしたが、社長は魅力的に感じたと思います」
レラカムイは現場、経営とゼロから立ち上げたクラブだ。そんな組織が日本バスケのレジェンドを、思い切って引き抜いた。交渉の末に妥結した初年度の年俸は4000万円で、当時の相場を考えれば破格の金額だ。
来道した折茂は、強烈なカルチャーショックを感じた。
「何が大変かって、環境が全く整っていないんです。日替わりでいろいろなところに練習へ行く。日本代表の合宿から戻ってきたら、廃校の体育館で練習をしていました。練習着もないし、家も自分で決めないといけない。合宿で稚内まで6時間バスに揺られたこともあります。トヨタ時代には全く考えられない出来事がありました」
ファンを集め、お金を稼ぐためには手間もかかる。その実感が実業団育ちの彼にはなかった。
「プロチームは地域密着で、地域の人たちに応援をされる。要はファンのために頑張らなければいけないのだけど、はじめはそれが分からなかった。『このイベントを自分はなぜやっているのか』も理解できなかった」
経営者としてクラブを背負う決意を固める
2007年に新設されたレラカムイ。同じくトヨタから移籍してきた桜井(写真左)らと初年度からチームをけん引 【写真:アフロスポーツ】
「トヨタ時代はあれだけ優勝しても、僕を知っているのはバスケットをやっている人だけ。優勝しても夜のスポーツ番組に十秒くらい映像が流れるだけ。だけど北海道にきて何が起きたかというと、すごく声をかけられるようになった。新聞やテレビ(の報道と)、いろんなイベントに出ることで知名度が上がっていった。北海道の特別な部分もあるんですけれど、(日本ハム)ファイターズさんやコンサドーレ(札幌)さんと同じように扱ってくれたのが大きかった」
しかしレラカムイは発足4季目の2010-11シーズン、存続の危機に立たされる。人気はあっても支出と収入のバランスが取れず、運営も混乱を極めていた。
折茂は選手だけでなく、経営者としてクラブを背負う決意を固める。
「最後だと思って北海道に来たわけですから。それにあの当時、レラカムイは圧倒的な動員力を誇っていました。それだけバスケット熱が非常に高く、ファンの人も応援してくれる。自分の責任としてやらなければいけないという思いでした。いろんなことが重なった年だったんですよ。レラカムイが無くなってしまう負の連鎖が大きくて、なおかつ東北の大震災からリーグが中断して……」
責任感だけでなく未来への期待感もあったのではないか? そう尋ねると、彼は首を振った。
「希望なんて微塵(みじん)も思わなかった。自分の責任として北海道に来て、たくさんの方々に支えられてプレーできたことへの恩返しがあった。それ以外はほぼ考えなかったですね」
商標などの問題があった中で、クラブ名はレバンガ北海道と改まる。新法人「一般社団法人北海道総合スポーツクラブ」の再出発だった。FCバルセロナのような薄く広く「ソシオ」の支援を集め、成り立たせる事業モデルが構想されていた。北海道協会との関係も改善し、協力を得られるようになった。