規格外のフットボーラー石塚啓次 いまだから明かせる高校、Jリーグ秘話
ピッチ内外で際立った規格外のキャラ
高校時代のエピソードからして規格外。練習はそこそこに、試合で結果を出すのが石塚スタイルだ 【撮影:中島大介】
「山城は京都の中心にあって、グラウンドも小さくてね。そこにサッカー部のほか、野球部やラグビー部もあって、練習してても野球のボールがボンボン飛んでくるみたいな。定時制もあったから、それまでに校門を出なきゃあかんって感じで練習は1時間くらいで(全国大会に出るような学校の中では)一番少ないんちゃう。朝練もなかったし。そんななか、俺は練習中ずっーとボールの上に座ってたって、よう言われるわ(笑)。監督も、元々は実業団で選手だった先生やから、俺に理解があったというか、自由にやらせてくれた。
例えば土曜日に練習があって、日曜日に試合がある。そしたら土曜の練習のあと、一度家に帰って次の日の荷物を用意して三条京阪駅のロッカーに入れて、朝までディスコ。それで、日曜はそのままグラウンドに向かって試合の15分くらい前に着いて『やりますか』って試合に出ていたらしい。ほかのメンバーは試合の2時間くらい前からアップとか準備していたらしいけどな。俺ももう忘れてもうてるからホンマかどうは分からんけど、そうらしいって言われるわ(笑)」
そんな状況でも監督やチームメートとの関係がうまく保たれていたというのは、石塚のどこか憎めないキャラクターがあったからだろうか。
「出れば活躍していたからね。これでも昔はサッカーがうまかった。部活をやめるとか言われたら面倒くさいだろうし。触らぬ神に祟りなし、かな(笑)。ただ、普通の練習は嫌いやったけど、ボールを使った1対1とかミニゲームは大好きで、小さい頃からボール遊びだけはようやっていたのは間違いからね」
「もっと頑張ってやっときゃよかったなあ」
「僕を出したら優勝できるんで」。当時物議を呼んだこのインタビューで、石塚は有名になった…… 【(C)J.LEAGUE】
当時の映像を見れば、インタビューを受けた石塚本人ではなく、状況をよく考えもせず質問をぶつけているインタビュアーにも問題がありそうだが、報道がひとり歩きし、何かと悪目立ちしてしまった。
「俺の仕事はしゃべる仕事ちゃうからね。まあ、あれは監督の松木(安太郎)さんに向けて『俺をもっと出してよ』って言った言葉だったんだけど。(プロで)もっと頑張ってやっときゃよかったなあとは思うよ。でも当時のヴェルディはめっちゃカッコよかったし、入れたときはうれしくてね。練習も楽しかった。だって、全員うまいんやからね。そやから、もう一皮剥けへんかったんかもしれへんけど……。
ラモス(瑠偉)とケンカしながら紅白戦をやったり、当時のヴェルディは試合前になると練習中にエキサイトして胸ぐらのつかみ合いになるとか、毎日ゾクゾクしてたわ。プロでの思い出? 一番言うたら、練習初日に加藤久さんにあいさつないやんって怒られて(笑)。ヴェルディではカズ(三浦知良)派、ラモス派、キーちゃん(北沢豪)派、哲さん(柱谷哲二)派って、鞄持ち制度があったけど、俺はどこにも属さず、誰とでも仲良くしとったな」
シーズンによって浮き沈みはあったし、その才能を思えば不完全燃焼だったと言えなくもない。V川崎を中心にプロで11年。最後は川崎フロンターレ、名古屋グランパスにも所属したが、V川崎時代を超えるインパクトは残せず、29歳で現役を引退した。
「最後はね、子どもいたし、次に行くなら若いうち、まだ名前が残ってる間に次のことやる方がメリットあるかなって、早めにね。それに、自分がうまくなくなったという思いもあったし、サッカーは草サッカーでもできるという思いもあったんよね」
引退後は同じく元Jリーガーの森敦彦(元横浜フリューゲルスなど)とアパレルブランド「WACKO MARIA」を立ち上げ、約7年間、国内ファッション業界で活躍したが、2012年に家族とともにスペイン・バルセロナへ移住。現在は、当地で飲食店を経営するほか、実業家として第2の人生を歩んでいる。(敬称略)
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1974年8月26日、京都府出身。京都・山城高3年時に冬の選手権で準優勝するも、ケガの影響もあって出場は決勝のみ。184センチの恵まれた体躯に、テクニックと視野の広さを武器に天才肌のMFとして注目を集め、卒業後はヴェルディ川崎に加入。2年目にはJリーグチャンピオンシップ優勝に貢献したほか、Jリーグ通算106試合15得点。03年に川崎フロンターレ、名古屋グランパスに在籍し同年オフに引退。その後はアパレルブランド代表を経て、2012年よりスペイン・バルセロナに移住。現地で新たなアパレルブランド「BUENA VISTA」を立ち上げたほか、14年6月にうどん屋「YoI Yoi Gion 宵宵祇園」を開店し、自ら厨房に立っている。