市船史上最高のストライカーと呼ばれた男 森崎嘉之はなぜJリーグで輝けなかったのか
帝京との決勝で見せた圧巻ハットトリック
市立船橋を初優勝に導いたエース森崎嘉之。しかし選手権のヒーローはその後、表舞台から消えた…… 【写真は共同】
8ゴールで大会得点王を手にした森崎は同年、市船の同期である茶野隆行、鈴木和裕とそろってJリーグのジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入団したが、その後、彼の名前が表舞台に出ることはなかった。
高校サッカー選手権で強烈なインパクトを残しながらも、なぜ森崎はプロの世界から早々に消えてしまったのか。
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1回戦で熊本農に4-0と快勝すると、続く2回戦も新潟工に6-1と大勝。3回戦で東福岡を2-0で下すと、準々決勝でも宮崎工に3-0と勝利。そして、準決勝でGK楢崎正剛(元日本代表、名古屋グランパスなど)を擁した奈良育英に3-0と快勝すると、決勝では名門・帝京から5点を奪うなど、まったく寄せつけなかった。
「大会前は優勝できるとは思ってなかったですし、運が良かったというか、たまたまだと思うんです。県大会の決勝もPKで勝って、なんとか全国(選手権)に行ったという感じでしたから。もちろん、当時はいまと違い都道府県の格差が大きかったので、熊本や新潟のチームに負ける気はしなかったですし、準決勝の奈良育英戦もたぶんシュート1本くらいしか打たれなかったと思います。
ただ、僕らの代はインターハイも全日本ユース選手権も優勝していた清水商業(安永聡太郎=元横浜F・マリノスなど、佐藤由紀彦=元FC東京など)が断トツの優勝候補と言われていて、順当に行けば準決勝で当たるはずだったのに、初戦(2回戦)で(奈良育英に)負けてくれた。たぶん、当たっていたら負けていたと思いますし、ホントにうまくいきましたよね(苦笑)」
主力のひとりだった茶野はケガで選手権を棒に振ったが、主将の鈴木のほか、1学年下にも、砂川誠(元コンサドーレ札幌など)、式田高義(元市原など)、城定信次(元浦和レッズ)などタレントはそろっていた。大会前の練習試合でゴールを連発し1年生ながらメンバー入りしていた北嶋秀朗(元柏レイソルなど)も、大会を通じて6ゴールを挙げる活躍を見せた。ただ、決勝でのハットトリックを含め、鮮烈な印象を放ったのが森崎だった。
決勝で決めた3点のうち2点は得意のヘッド。右CKにニアで合わせた1点目、右からの山なりのクロスに滞空時間の長いジャンプから豪快に決めた2点目は、ともに高校レベルを超えたものだった。
「1点目は練習通りで、ボールの軌道とタイミングでポストに当たらない限りは入るなという感覚でした。2点目はプレーしていたときは分からなかったですが、あとで映像を見たらスゴかった(笑)。いま振り返ると、あのときは“ゾーン”に入っていたんでしょうね。センタリングが上がったときから、すべてがスローモーションで見えたというか、飛んでからヘディングしてボールがゴールに入るまで、頭のどこにボールが当たったとかGKの位置まで、全部見えていましたから。そこまでヘディングを練習した記憶はないですが、頭で決めた点は多かったですし、得意だったんでしょうね」
Jリーグでの出場はカップ戦…たった4分間
ナビスコカップ1試合、それもたった4分の出場。森崎のプロキャリアは寂しい数字とともに、幕を閉じた 【J.LEAGUE PHOTOS】
ポジションの差こそあれ、1年目から茶野が26試合、鈴木が33試合と出場機会を得ていたことを考えれば、あまりにも寂しい数字である。
「試合に帯同したのも、10試合あるかないかくらいだったと思います。『ケガでもしたの?』ってよく聞かれるんですが、大きなケガは一回もなかった。簡単に言えば、メンタルが弱ったんです。高校時代はヘディングで負ける気はしなかったですが、プロに入ってスピードも高さも体の強さも違い、その差に戸惑った部分はありました。
そこで誰かに相談するなりすれば良かったのですが、僕は誰かに相談するというよりもひとりで解決しようとうするタイプだったので。あるとき練習で角度のないところからシュートを決めて喜んでいたら、監督から『そこはパスだろ』って言われたり。感情表現もうまくなかったので、一生懸命やっているように見えなかったのかもしれませんが、やる気があるのに『やる気あるの?』って言われたら、やる気うせません?(苦笑)」