“生粋の野球一家”で育った楽天・黒川
悔しさを知った5季連続の甲子園出場

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生まれながらにして「野球をやる最高の環境」だった黒川一家。楽天からドラフト2位指名を受けた次男・史陽は、多感な少年時代をほぼ野球一筋で過ごしてきた
生まれながらにして「野球をやる最高の環境」だった黒川一家。楽天からドラフト2位指名を受けた次男・史陽は、多感な少年時代をほぼ野球一筋で過ごしてきた【瀬川ふみ子】

 野球一家に生まれ育ち、甲子園で優勝することとプロ野球選手になることを目標に小さい頃から頑張ってきた黒川史陽(ふみや)。智弁和歌山高では、1回でも出場が難しい甲子園に、なんと1年夏から5季連続出場。3年間で13試合を戦い、16本のヒット(うち1本塁打)を放った。だが、3年夏の甲子園3回戦では、奥川恭伸(星稜高−東京ヤクルト1位)を相手に6打数ノーヒットと沈黙。甲子園17本目のヒットが打てず、目標だった日本一への道を断たれた。次なる目標はプロで活躍すること。東北楽天から2位という高評価でプロ入りを決めた黒川は、プロでのナンバーワンをめざし練習に励む。野球が好きで好きでたまらないという、熱い「野球小僧」の思いを聞いた。

毎日3兄弟で練習していた少年時代

――父・洋行さんは1993年に上宮高が春のセンバツで優勝した時の二塁手で主将。3歳年上の兄・大雅さんは日南学園高で2度甲子園に出場(現・九州共立大3年)。2つ下の弟、怜遠(れおん)さんは星稜高に進学(現1年)。なかなかない野球一家ですが、どんな少年時代を過ごしていたのですか?


 気付いたときにはもう野球をしていました。他のスポーツをしたいとかもなかったですし、将来はプロ野球選手になりたくて、野球の練習をしたすぎて、勉強する時間はなかったですね。野球ばかりでゲームもない家、と言われたりしていますが、ゲームはあるんです。でも、ゲームをするより野球をしていた方が楽しいから野球をしていただけ。毎日野球して、近所の集会場で壁当てをしすぎて、塀が割れて怒られちゃった、なんてこともありました(笑)。


――本当に野球が大好きなんですね。兄弟3人でよく練習していたとか?


 僕が幼稚園のときから小学6年生まで、父が単身赴任(社会人チーム・セガサミー野球部のコーチ)でいなかったので、父が指導してくれたというよりは、僕ら3人で練習していました。小学生でいうと、兄が6年、僕が3年、弟が1年で、兄がピッチャーをして、僕がキャッチャーをして、弟がバッターとか。3人とも全ポジションやるんですが、兄と僕は守備練習をしたいから、弟がノックをすることが多かったです。弟はノックがめっちゃうまいんですよ。兄はすごく守備がうまいです。男3兄弟の真ん中に生まれたのも運命。野球がしたすぎる僕にとって、兄と弟と3人で練習ができるのはすごく大きかったです。


――中学1年のとき、お父さんが単身赴任先の東京から奈良に戻り、バッティングセンターの経営を始めたそうですね。


 家から10分ぐらいのところにあるのですが、打ちたいから毎日行っていました。行きたくないと思った日は1日もないです。打ちたいと思った時にすぐに行けて、毎日好きなだけ打てるというのは、本当にいい環境だったなと思います。


――甲子園優勝経験もあり、大学、社会人でも野球を続け、さらに社会人のコーチをするほどのお父さん。何でも聞けて良いですね。

 

 野球を知っているし、何でも教えてもらえる中で過ごせたのは良かったんですけど、ボーイズの試合を見に来ると、家に帰ってから「もうちょいこうしろ、ああしろ」といろいろ言われて。それが嫌で、「もう試合を見に来ないでよ」と喧嘩(けんか)したことがありました。そしたら父から「高校行って甲子園行っても応援しやんぞ(しないぞ)」って言われて「別にいいよ」と……。でも「本当に来なかったら嫌やな……」って思っていたんですが、僕が甲子園に出たらアルプスで全力で応援してくれていたので、「あー良かったー」って(笑)。突き放しても、ちゃんと応援してくれる、父の優しさだなって感じました。


――3兄弟の関係もそうですが、父子関係も素敵ですね。でも進路には、父の母校(上宮高)でも、兄が通う日南学園高でもない高校を選びました。どうして智弁和歌山高に行こうと思ったのですか?


 僕には、プロ野球選手になりたいということと、日本一になりたいという目標があって、そのためには強豪校だと。強豪であっても自主性があるところがいいなと思って、それが智弁和歌山でした。でも、少数精鋭だし、頭がいい学校だし、「僕じゃ無理やろう」と思っていたら、たまたま声をかけてくださって、すぐに「入学します!」と返事をしました。

瀬川ふみ子

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