連載:川内優輝物語 -ゴールなきマラソンマン-

川内優輝物語 -ゴールなきマラソンマン- 第4話 惨敗時に示した「日本代表の意義」

栗原正夫
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今季、「市民ランナー」から「プロ」へと転向をした川内優輝。マラソンの原点から世界陸上、そしてその先へと続く彼の人生に迫ったノンフィクションストーリー。イラストは川内のバイブルともいえる漫画『マラソンマン』の井上正治が描き下ろし。

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14位に終わった12年東京マラソン

 スーツ姿に固く締めたネクタイ。前日の深夜に丸めた頭でカメラの前に立った川内優輝の神妙な姿は、どこか痛々しく見えた。

 誰に促されるわけでもなく、その真意をわかり兼ねるという指摘もあったが、言い訳などせず、とにかく深々と頭を下げた。それが彼なりのケジメだった――。

【(C)井上正治】

「応援してくれた方の期待に応えられなかったのは悔しいし、悲しい。何らかのことをしなければいけないと思い、頭を剃(そ)って参りました」

 2012年2月27日、当時の職場だった春日部高校で行われた会見は、ランナー川内優輝の潔さや覚悟、意地というあらゆる感情が凝縮していた。

 その前日、26日に12年ロンドン五輪の男子マラソン選考会を兼ねた東京マラソン2012に出場した川内だったが、24キロ手前で失速すると14位と振るわず。その結果、“五輪出場が厳しくなった”として勤務先の昼休みにもかかわらず、詰めかけた報道陣に対応することになったのだ。

【(C)井上正治】

 この時点では選考レースがまだ1つ残されており、何かが決まったわけではない。さらにいえば前年12月の福岡国際マラソンで2時間9分57秒というタイムで全体3位、日本人1位という結果を出していた川内は、代表入りの可能性が消えたわけではなかった。ただ、誰より川内自身が2時間10分を切ったくらいのタイムで、日本代表として五輪に出場することを望んでいなかったため、この会見は開かれた。
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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