富島、誉、飯山…それぞれの初出場物語 甲子園で感じた「違い」と「幸せ」

楊順行
 第101回大会、そして元号が「令和」に変わって最初の大会となった今年の夏の甲子園。高校野球史に新たなページを刻むべく、3校が聖地・甲子園に初見参を果たした。いずれも初戦で敗れたものの、それぞれの物語があったようで……。

富島:廃部危機からわずか6年で夏舞台

 内野安打を示すスコアブックの余白に、「速い」と特記してある。

 敦賀気比(福井)との初戦、4回に富島(宮崎)の1番・松浦佑星が放ったのは、なんでもない一塁ゴロ。それでも松浦の飛ばした俊足は、ややベースカバーの遅れた投手との競争で、間一髪セーフとなる。松浦は盗塁と内野ゴロで三塁まで進むと、一塁走者と仕掛けた重盗で三本間に挟まれたが、三塁手の送球が高くなったところを見逃さず、ホームに滑り込んだ。初出場の富島が、15年センバツ優勝の難敵に1対1の同点に追いつくホームインだった。

夏初出場の富島は松浦主将(写真)の好走塁で1点をもぎ取る 【写真は共同】

 主将も務める松浦は、文字通りチームの中心だ。

 県大会では1番を打ち、打率.647。甲子園でも、ヒット性の打球を回り込んで一塁で刺すなど、ショートとしてほれぼれする動きを見せている。「目標としてきた夢の舞台でしたから」。松浦は、そう言った。

 日向市に位置する県立高校の富島。創立100年を超えた伝統校だが、野球部はほんの少し前まで危機にあった。2012年夏の宮崎大会を終えて3年生が引退すると、残ったのは1年生だけのわずか5人だったのだ。

 廃部の声さえ聞こえてくる。そんな13年春に赴任したのが、宮崎商の監督として08年夏に甲子園で勝った経験のある浜田登監督だ。

「4年で甲子園に行きます」。浜田監督の宣言に触発された入部者が増え、廃部の危機を脱すると、15年秋には九州大会出場と急速に力をつけた。

 一因には、武者修行のための遠征があるのだが、遠征資金には冬休みなどにナインが行った短期アルバイトの収入が充てられた。その経験は、金銭の重みを知り、野球ができる環境に感謝する心につながったという。そして18年春には、センバツに出場。宣言より1年長くかかったが、「県立でも、あそこまでできる」と、県内には驚きの声が広がった。

 そしてこの夏、である。松浦が2安打し、エース・黒木拓馬が8回途中で降板するまで自責点1と踏ん張ったが、敦賀気比に1対5と、富島の甲子園初勝利はならなかった。

 それでも松浦は、主将らしく言うのだ。

「みんなが成長してくれて……ケガで迷惑をかけた時期もあり、感謝しています」

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誉:聖地でも「ジャイキリ」狙ったが…

 富島をはじめ、この夏の初出場は戦後では最も少ない3校。誉(愛知)と飯山(長野)の2校は、春夏通じて初めての甲子園だった。

 そのうちの、誉。ただでさえなにもかも初めての経験なのに、組み合わせ抽選ではよりによって開幕戦となり、しかも林山侑樹主将は開会式での選手宣誓という大役まで引き当てた。

全国屈指の激戦区・愛知を勝ち上がった誉。甲子園では開幕戦で敗れたが、林山主将が選手宣誓をするなど、話題を呼んだ 【写真は共同】

 誉。なんでも、1文字の高校が甲子園に登場するのは8校目らしい。09年、尾関学園からインパクトのある現校名に改め、丸10年で甲子園に初出場だ。激戦区・愛知では、愛工大名電や中京大中京など強豪校を破る“ジャイアントキリング”の末、ノーシードからの快挙だった。

 率いるのは、矢幡真也監督。岐阜・美濃加茂のエースとして、1990年夏の甲子園に出場。朝日大卒業後は、社会人の阿部企業でプレーした。そこで出会ったのが、3人のキューバ人選手だ。なかでも、キューバ代表歴のある一人の野球への取り組みは、強く印象に残った。

 現役を3年で引退後は、電器店で働きながら縁あって公立校のコーチを務め、06年には、電器店で取引のあった尾関学園の理事長に誘われて監督となった。

 当時は部員わずか7人。就任後も“1、2回戦ボーイ”が続き、けが人が出てゲーム途中で棄権したこともあったが、学校の方針として「甲子園10年計画」がスタート。やがてキューバ式を採り入れた指導が徐々に実り、10年春に県ベスト4となると、14年秋、18年春には県で優勝を果たすまでになった。そのときのメンバーが4人残るこの夏、初めての大舞台を踏んだわけだ。

 開幕戦の相手は、過去に準優勝の経験を持つ八戸学院光星(青森)。「相手が強いと燃えた」と林山が振り返るように、愛知では強豪相手でも平常心だったが、甲子園ではさすがに勝手が違ったか。初回2死から、四死球の3人を置いて先発の杉本恭一が満塁本塁打を被弾。打線もわずか4安打と、0対9の完敗を喫してしまう。

 矢幡監督は言う。

「甲子園の大観衆のなかでやらせていただくと、精神的にコントロールできず、注意力も散漫で平常心が保てませんでした。初回のピンチも、愛知でならなんとか抑えるんですが、やはり甲子園は違うな、と。それに比べて相手はさすが常連校で、投手が冷静に投げていましたね」

 だが、小牧市から初めての甲子園出場は、間違いなく「誉れ」だ。

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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