野球人・高津臣吾がたどり着いた境地 若手の飛躍のために重視することは?
ヤクルト黄金時代やメジャー、独立リーグまで経験した高津二軍監督。指導者となった今、それらの経験はどう生きているのか 【花田裕次郎/ベースボール・タイムズ】
広島工業高から亜細亜大を経て、1990年のドラフト3位で東京ヤクルトに入団した高津臣吾。守護神として4度セーブ王に輝き、日本シリーズでも4度の胴上げ投手となった。黄金時代を知る男が今、二軍監督として選手たちに伝えたいこととは何だろうか。
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ヤクルト黄金期を知る男として
一つ一つの場面を振り返ると苦しかったことばかりを覚えていますけど、全体を振り返ると、すごく楽しい現役生活だったと思います。ある程度一軍で活躍することができましたし、チームとして勝つこともできた。今もこうやって二軍監督としてユニフォームを着させてもらっているのも、現役時代のことがあったからだと思いますし、そう考えると、ここまでありがたい野球人生を送らせてもらっているなと思います。
――高津さんが守護神を務めていた時代、ヤクルトはいわゆる黄金期でした。当時のチームを振り返って、勝てた理由はどこにあったのでしょうか?
今のチームがどうこうという訳じゃないですけど、当時はすごく個性が強かったと思います。古田(敦也)さんを筆頭に、真中(満)も伊藤智仁も石井一久も、すごく自分というものをしっかり持っていた。チームなので自分を持っているだけでは勝てないんですけど、そこをうまくまとめていた野村(克也)監督の存在は、やはり大きかったと思います。
野村監督というと表面上はすごく厳しいように見えるんですけど、僕たちはすごく伸び伸びとプレーさせてもらった。いい意味での上下関係、監督、コーチと選手との線引きもうまくできていましたし、古田さんを中心としたチーム作りというものもすごくうまくいっていたと思います。
――野村監督の下でプレーして、二軍監督となった今に生きていることは?
僕の中で野村監督の存在というのはすごく大きいのは間違いないですし、今につながっていることも多いと思います。ただ、学んだことはすごく頭に残っていても、それをまた別の人に伝えるというのは、すごく難しいとも感じます。野村監督だけじゃなくて、いろんな監督の下でプレーさせてもらいましたけど、そこで学んだことを基盤に、自分の考えもプラスしながらやっていければと思っています。
「厳しい部分」を経験して感じたこと
メジャーではホワイトソックス、メッツと渡り歩き、2年間で27セーブをマークした 【Getty Images】
やっている時はむちゃくちゃしんどかったですよ。メジャーは別にして、韓国とか台湾、BCリーグというのはいろんな環境面、生活面でしんどかったです。でも今、トータルで振り返ると、ものすごくエンジョイさせてもらったなと思えます。NPB以外のリーグでプレーしていなかったら、今とはまた別の考え方でここに座っているだろうと思いますし、野球界の厳しい部分も経験したと思うので、いろんな目線で、立場に立って考えることができるようになったかなと思います。
――“厳しい部分”を経験した中で気がついたこと、学んだことは具体的にどういったものがあったのでしょうか?
言葉はちょっと古いですけど、忍耐力だったり我慢強さ、根性だったりするのは、プロの選手としてすごく大事なことだと思いましたね。恵まれた環境の中でプレーするのは楽しくていいですし、そこで伸びる技術もありますけど、時には歯を食いしばって、必死になって汗を流すことも必要。時には「絶対無理だろう」というところに自分から飛び込んでいくことも大事になると思います。
――その中で長く現役でプレーするためにはどういった部分が必要になるのでしょうか?
やっぱり「無事是名馬(ぶしこれめいば)」じゃないですけど、まずは体が強くないと長い間プレーすることは難しい。それともう一つ強くなくちゃいけないのが、やっぱり精神的な部分でしょうね。体と心、その両方の強さを持っている選手が長くプレーできる。どちらか片方でも欠けてしまうと、選手としての能力がすごく早く落ちていってしまう気がします。