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栗原恵「ずっと自分に自信がなかった」
今だから話せる、走り続けた20年間のこと

「後ろめたさ」から抜け出すきっかけになったロンドン五輪

アテネ五輪に出場したことで、栗原は「五輪」の厳しさを知った
アテネ五輪に出場したことで、栗原は「五輪」の厳しさを知った【写真:築田純】

 若い選手はグッと伸びる時期がある。それを最初に実感したのが2年生の春高で、次に実感したのが加奈と一緒に出た2003年のワールドカップから04年のアテネ五輪最終予選までの時期でした。


 正直私は、ずっと自分に自信がなかったんです。


 ただ大きいだけでユースや選抜にも選んでいただいたけれど、下手なのは自分がよく分かっているし、「もっと私よりもすごい選手がいっぱいいるのに」とか「何でこんな下手な私が取り上げられるんだろう」と思っていたし、世間が抱くイメージとのギャップに追いつこうと必死でした。


 加奈といればテレビのカメラが向けられるので、お互い「一緒にいないほうがいい」と距離を置くようになったのもその頃。何をしても先輩方に迷惑をかけているような気がして、試合後に記者の方が取材をするミックスゾーンも「お願いだから誰も声をかけないでください」と思っていたし、会場を出てバスに乗るまでのわずかな間も「誰からも声をかけられませんように」と祈るような思いでした。


 何をしても自信がなくて、後ろめたさばかりでしたが、そこから抜け出せたのがアテネ五輪の最終予選。その前のリーグでの成績はチームとして3位だったのですが、自分自身が一番もがき苦しんだシーズンだったこともあり、試合をするたび得られる自信が、ほんの少し、自分を強くしてくれました。あの春高以来初めて、試合を重ねるごとに「楽しい」と思えたし、チームが強くなることを実感できる。五輪の出場を決めたということ以上に、それがうれしかったですね。


 ただ、アテネ五輪に出て、五輪の厳しさを初めて知って、自分の立場も変わる。北京までの4年間、背負う責任は一気に増えて、あの頃はただもがいていました。


 栗原はストイックだ、栗原はクールで笑わない。世間から求められる「エース像」に縛られて、本当の自分じゃない自分を演じているような気がして苦しかった。休みの日に街を歩いていても、全然関係ないところで発せられた「負けたのに」という言葉だけが引っかかって、それが全部自分に向けられているような気がしていました。


 今思えばもっと、肩の力を抜いてバレーボールと向き合えばよかった。そう思います。でもその頃は「応援されている」と思うよりも、人の目がつらかったし、常に「練習しなきゃダメだ」と追い込むばかり。

五輪メンバーから落選、それでもバレーを辞めなかった理由

ロンドン五輪から落選した後、栗原は「自分の価値」をあらためて考えたという
ロンドン五輪から落選した後、栗原は「自分の価値」をあらためて考えたという【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 やっと肩の荷が下りたのは、12年のロンドン五輪メンバーに落選してからです。


 どれだけけがをしても「絶対治る、大丈夫」と思っていたし、どれだけ苦しくてもいつも私の心には「日本代表として五輪に出る」ことが目標で、それが自分の存在価値だと思っていました。


 でも、分かりますよね。一緒に合宿をして、チームの中にいたら、「自分はここに残れない」と嫌でも感じる。ロンドン五輪直前の愛知県で行われたワールドグランプリが、私にとって全日本のユニホームを着て臨む最後の大会になる。そう覚悟していました。


 日の丸をつけてコートに立つ以上、たとえどんな状況、コンディションであろうと恥ずかしいプレーはしたくない。現実を見て失望しそうになる自分と、無理にでも前向きでなければならないという自分と葛藤していました。


 最後まで希望を捨てたわけではありません。でもこれが最後になるなら、応援してくれた人に感謝の気持ちを示したい。全日本の「1番栗原」を見たいと思って下さる人に、少しでも「ありがとう」を伝えたい。ただ、その思いだけでした。


 だから最終的にロンドン五輪のメンバーから外れた時、私自身は「日の丸を背負うことが自分の価値だ」と思っていたので、それがなくなってしまってこれからどうすればいいんだろう、と迷いました。


 多くの人から「辞めると思った」と言われたように、先のことを考えなかったと言えば嘘になる。でも、日の丸を背負うという自分の存在価値がなくなって、じゃあどうする、と思ったら私に唯一残った存在価値は「バレーボール」だと思ったんです。

「思い描いたバレーボール選手人生を過ごすことができた」

海外へ行こうとしていた栗原に声を掛けたのが岡山シーガルズの河本監督だった
海外へ行こうとしていた栗原に声を掛けたのが岡山シーガルズの河本監督だった【赤坂直人/スポーツナビ】

 そんな時、声をかけて下さったのが岡山シーガルズの河本昭義監督でした。高校生の頃からずっと声をかけ続けてくれたのと同じように、ロンドン五輪へ出られなかった私を必要だ、と言ってくれる。実は海外へ行こうと思っていたのですが、冷静に考えたら、自分の価値がなくなった、と思っている時に「必要だ」と言ってくれる人がいる。それならばその場所で頑張ってみるのが大事なのではないか、と初めて思いました。


 私は五輪に行けなかった。私は下手だ。それまではずっと、自分のダメなところばかり見ていました。でも岡山で地元の人と触れ合い、バレーボール教室をすれば「メグちゃんのおかげで私も頑張ろうと思えた」と声をかけて下さる人がいる。


 ずっと好きなことを必死で続けて来ただけの私に「あなたのおかげで頑張れる」と言ってくれる人がいる。そのことが、自分の存在価値などないと思っていた私にとって、何より大きな支えでした。


 何度けがをしても「まだまだ、万全の状態で動けます」と戦う姿を見せたかったし、けがで引退するのは嫌でした。今思えば、リハビリ明けの頃はまだ痛々しくて、あんなプレーをファンの皆さんに見せてよかったのか、と思うこともあります。


 でもそれも当時の私には精一杯だったし、つらいことも乗り越えて、最後まで戦えた。子供の頃に何度も読み返したマンガのように、島から出た少女がバレーボール選手として活躍する。思い描いたバレーボール選手人生を過ごすことができた私は本当に幸せです。

「思い描いたバレーボール選手人生を過ごすことができた」と栗原は笑顔を見せた
「思い描いたバレーボール選手人生を過ごすことができた」と栗原は笑顔を見せた【赤坂直人/スポーツナビ】

 これからどうなるのか。何をするのか。まだ具体的に思い描くことすらできず「むしろどんな可能性があるのか、教えてほしいぐらい」と笑う。


 先のことは分からない。ただ、どんな道を歩むにせよ、心の根本にあるのはパイオニア時代の恩師であるアリー・セリンジャー氏の言葉だ。


「最初から『できない』と決めるのではなく、やってから『できる』『できない』と決めなさい」


 後悔を恐れず島を出たあの頃と何も変わらない。ここから、一歩踏み出していく。新たな未来にワクワクしながら、笑顔で、前へ――。

田中夕子

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など、女子アスリートの著書や、前橋育英高校野球部・荒井直樹監督の『当たり前の積み重ねが本物になる』では構成を担当

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