連載:左サイドスローの美学

角盈男が打ち破った“野球界のタブー” 固定観念の無さが進化を生んだ

前田恵
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自身の投球フォームについて「本当のサイドスローではない」と話す角氏だが、「最も自分に合ったフォーム」だったと語る 【写真は共同】

 プロ入り2年目の秋、オーバースローからサイドスローに転向した角盈男。ところが、これがマスコミにも評論家にも、散々叩かれた。「当時、左のサイドスローは基本的にタブーだった。あのころはまだ、右バッターが圧倒的に多かったから。彼らからしたら、左サイドは見やすいでしょう。ましてや183センチという上背のある僕が、どうしてわざわざ横から投げるのか、と」。それでも自ら納得して選んだ道。やがてシーズンが始まると、周囲の批判は瞬く間に称賛へと変わった。

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“作られた左サイドスロー”

高校時代は自由に野球ができた角氏だが、「強豪校を出るにこしたことはない」と笑う 【スリーライト】

「僕のサイドスローは、バッターでいうと“作られた左打ち”なんですよ」と角は言う。プロ2年目までは、オーバースロー。テークバックのときに顎が上がり、空を仰ぎ見てから豪快に投げる、独特のフォームである。その後、サイドスローに転向して以降も毎年、シーズン前に肩を作り始めるときは、上から投げてきた。それで8割がた肩を作ると、あとは腕を下げるだけ。「本当のサイドスローではない」けれども、サイドスローが「最も自分に合ったフォーム」なのだという。

「僕はプロに入るまで、ピッチングを習ったことが一度もなかった。少年野球から高校、社会人に至るまでずっと、我流でやってきたんです」

 長嶋茂雄監督をして「馬力ボーイ」と言わせた剛腕は、ルーキーイヤーに60試合に登板し、新人王を獲得。しかし、“我流”のフォームは実のところ、上半身と下半身のバランスがバラバラだった。そのためコントロール難と隣り合わせで、好不調の波も激しい。1年目とは打って変わって2年目は成績が伸びず、その秋、運命の伊東キャンプを迎えることになる。
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著者プロフィール

1963年、兵庫県神戸市生まれ。上智大学在学中の85、86年、川崎球場でグラウンドガールを務める。卒業後、ベースボール・マガジン社で野球誌編集記者。91年シーズン限りで退社し、フリーライターに。野球、サッカーなど各種スポーツのほか、旅行、教育、犬関係も執筆。著書に『母たちのプロ野球』(中央公論新社)、『野球酒場』(ベースボール・マガジン社)ほか。編集協力に野村克也著『野村克也からの手紙』(ベースボール・マガジン社)ほか。豪州プロ野球リーグABLの取材歴は20年を超え、昨季よりABL公認でABL Japan公式サイト(http://abl-japan.com)を運営中。

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