連載:なでしこジャパン新時代「女王奪還」へ
なでしこフィーバーとは何だったのか 選手、関係者の証言で振り返る
深い傷を残した“シドニーショック”
12年ロンドン五輪の決勝ではアメリカに雪辱を果たされてしまったが、銀メダルを獲得した 【写真:ロイター/アフロ】
しかし、99年に翌年のシドニー五輪への出場を逃すと、これまでサポートしてくれていた企業が次々と撤退していき、リーグ存続の危機に直面したのだった。
むろん、五輪への切符を逃したことは、ひとつのきっかけに過ぎない。Jリーグでも当時、横浜マリノスと横浜フリューゲルスが合併し、清水エスパルスやベルマーレ平塚が存続の危機に陥るなど、経済悪化がスポーツに影響を及ぼしていた。
同じように、女子サッカーを支援していた企業も業績悪化によって、サポートする余裕を失っていく。そして、追い打ちをかけるように、99年女子W杯・アメリカ大会でグループ最下位に終わり、シドニー五輪の出場権獲得に失敗したのだ。
五輪に出場できる競技ということで女子サッカーを支えていた企業が、その状況を維持できなくなり、女子サッカーは壊滅状態に陥った。竹中が振り返る。
「うちが断ると、あの子、プレーするところがなくて引退しないといけないらしいよ、っていう話を何度も聞きました。でも、うちにも受け入れる余裕がなかった。ベレーザ自体も、なくなりそうだったんです。
一度、風呂敷を大きく広げると畳めなくなってしまう。女子サッカーを続けることが大事。シドニー五輪を逃した頃のことが教訓になっていたので、うちは早々に取材攻勢から撤退したんです」
一方、W杯優勝によるなでしこフィーバーは、なでしこリーグにも大きな影響を与えていた。
W杯による中断が明け、11年7月にリーグが再開されると、INAC神戸レオネッサvs.ジェフユナイテッド市原・千葉レディース戦に1万7812人もの大観衆が押し寄せた。これは、95年の鈴与清水FCラブリーレディースvs.シロキFCセレーナ戦で記録した1万人を大幅に塗り替える、リーグ史上最多の観客数だった。
INACは、この年にベレーザから加入した澤穂希、大野忍、近賀ゆかり、生え抜きの川澄奈穂美らを擁するタレント軍団。一方のジェフには、W杯のドイツ戦で決勝ゴールを決めた丸山桂里奈が所属していた。この11年に初優勝を飾ったINACはその後、リーグ3連覇を成し遂げ、黄金時代を謳歌する。
厳しい状況はすでに迫りつつあった
15年女子W杯では2大会連続決勝進出を果たす。だが、岩清水はこの頃から、厳しい状況が迫りつつあることを感じていたという 【飯尾篤史】
さすがに13年に入ると、なでしこリーグの観客数は落ち着き始めたが、岩清水はその状況を冷静に受けとめていたという。
「1万人以上入っていたときから、これはブームで、定着するなんて思っていなかった。こんなに満員になるのは、今だけだろうなって。また結果を出して、観に来てくれる人を増やせるように頑張ろう、っていう話をみんなとしていました」
2年後の15年6月、カナダで開催された女子W杯でも、なでしこジャパンは決勝まで勝ち上がる。世界大会のファイナルで三たび顔を合わせたアメリカに、またしても敗れてしまったが、W杯準優勝という立派な成績を挙げた。
ところが、岩清水はこのとき、女子サッカーに厳しい状況が迫りつつあることを、感じずにはいられなかった。
「準優勝したのに、メディアにあまり取り上げてもらえなかったんですよね……。だから、ああ、評価されるのは優勝だけなんだな、厳しいなって思いましたね」
日本人には五輪信仰なるものがあるから、これが五輪における銀メダルなら、話は違っていただろう。しかし、女子サッカーのW杯は、同じ世界大会であっても注目度は大きく異なっていた。ましてや4年前には世界チャンピオンに輝いたわけだから、メディアはもはや、2位では取り上げる価値が低いと判断したのだった。
なでしこブームは、間違いなく落ち着きつつあった。そして、9カ月後、恐れていたことが起こる。
16年3月、大阪で開催されたリオ五輪女子サッカー・アジア最終予選で、まさかの3位に終わり、五輪出場を逃してしまうのである――。(文中敬称略)
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