2度のW杯招致活動の蹉跌を振り返って 小倉純二が語る「平成の日本サッカー」

宇都宮徹壱

Jリーグの立ち上げから離脱してJFAへ

小倉の部屋には1999年ワールドユースで準優勝した際の日本代表のユニホームが飾られている 【宇都宮徹壱】

 JFA(日本サッカー協会)最高顧問、小倉純二の部屋はJFAハウスの11階にある。広報スタッフに案内されると、1999年ワールドユース(現U−20ワールドカップ=W杯)で準優勝した日本代表のユニホームの額装が視界に飛び込んでくる。そして部屋の主は、にこやかな表情でわれわれを迎えると、すぐさま思い出話に花を咲かせた。

「20年前のナイジェリア大会は、まだFIFA(国際サッカー連盟)の理事になる前で、FIFAのユースコミッティのメンバーとして現地に行きました。日本が準優勝したこともあり、非常に思い出深い大会ですね。それからさらに20年前、79年に日本で開催されたワールドユースでは、財務委員をやったり警護の計画を立てたり、といったことをやらせていただきました。それがFIFAとの初めての仕事でした」

 久々に小倉を訪ねたのは、このほど上梓された『「平成日本サッカー」秘史 熱狂と歓喜はこうして生まれた』(以下『平成秘史』)の著者インタビューのためである。小倉は1938年の生まれ。平成の改元を50歳で、そして令和の幕開けを80歳で迎えた。日本サッカーにとっては、驚異的な発展の連続だった平成の30年。本書は、長年にわたりJFAやFIFAなどの要職にあった小倉による回顧録だ。「坂の上の雲」のような時代を丹念に振り返りながら、サッカーとの縁を作ってくれた古河電気工業への謝意が端々につづられている点も見逃せない。

「私がいた古河電工という会社は、サッカー界に人材を送り出すことに抵抗はなかったですね。日本代表監督だった長沼(健)さん、東京五輪とメキシコ五輪で主将だった八重樫(茂生)さん、それから川淵(三郎)さん、平木(隆三)さんもそう。平木さんは会社を辞めてJFAの職員になりましたが、私は専務理事になっても定年まで会社に籍はありました。『借金(住宅ローン)を返済するまではいてくれ』と言われて(笑)」

 1981年から6年間、駐在員としてロンドン行きを命じたのも古河電工だった。この時に「JFA国際委員」の名刺を持ち、仕事の傍ら現地で築いたサッカー関係者とのコネクションは、日本サッカー界にとっても大きな財産となる。そして濃厚かつ豊潤な「フットボールの母国」の文化を吸収して帰国すると、待っていたのは閑古鳥が鳴く国内リーグの窮状。この時に抱いた危機感が、日本サッカーの新時代を切り開く原動力となる。

「向こうに行く前は、日本サッカーリーグにそれなりにお客さんが入っていたし、向こうではずっと満員のスタンドを見ていたわけですよ。それが帰国してみると、本当に数えるほどしかお客さんがいなくてショックでした。今のままでは限界だと。その後、日本サッカーのプロ化という議論になってJリーグにつながっていくわけですが、私自身は『川淵さんたちと一緒にやらなければ』という思いが強くありました。ただそうなると『JFAの財務は誰が立て直すんだ』という話になって、それで私が専務理事になったのが92年でしたね」

韓国の追い上げで「共催」となった2002年

単独開催を目指していた日本だったが、02大会は韓国との共催という形になった 【写真:ロイター/アフロ】

 小倉はその後、AFC(アジアサッカー連盟)理事、FIFA理事、JFA会長などを歴任。これまでの日本サッカー回顧録とは異なり、『平成秘史』がよりグローバルな視点を読者に与えてくれるのは、まさに小倉が歩んできたキャリアがあればこそである。今回のインタビューでは、あえてテーマを「W杯招致活動」に絞ることにした。右肩上がりの平成サッカー史にあって、2度のW杯招致は日本にとっての蹉跌(さてつ)であり、そのいずれにも小倉が深く関わっていたからだ。まずは2002年の招致活動から。

「W杯招致の議論を始めた当初、4万人が入るスタジアムなんて国立と大阪(長居陸上競技場)しかなかった。それが実際に募集をかけると15の自治体が手を挙げてくれて、中には『国体用のスタジアムを前倒しで作ってもいい』というところも出てきたんですね。ただし首都の東京は手を挙げられなかった。国立競技場の改修は『工事期間中に大会ができない』と陸連が反対。米軍の調布基地跡地にスタジアムをという話も『予算がない』。最後は、横浜市長だった高秀(秀信)さんが決断してくれて助かりましたね」

 開催地に首都が外れるという誤算はあったものの、新横浜に決勝が開催できる7万人収容のスタジアムが作られることが決定。肝心の招致活動レースでも、日本が圧倒的に優位に立っていた。それは当時のFIFA会長、ジョアン・アベランジェからお墨付きをもらっていたことからも明らかである。

「アベランジェは『手を挙げている国はいろいろあるけれど、やっぱり日本だろうな』と言ってくれましたね。当時はW杯の大会スポンサーも日本企業がたくさん名を連ねていましたし、ワールドユースやトヨタカップといった大会運営の実績もある。93年には日本でU−17W杯も開催して、FIFAから運営能力を高く評価されました。『02年は自動的に日本になるよ』とも言われていましたね」

 潮目が変わったのは、93年の晩秋から94年の初夏にかけて。いわゆる「ドーハの悲劇」によって日本がW杯初出場の夢を絶たれると、逆転で本大会の切符を手にした韓国が02年の招致レースに名乗りを挙げる。そして翌年5月のFIFA副会長選挙では、JFA副会長(当時)の村田忠男が韓国のチョン・モンジュンに惨敗。こうした韓国の猛烈な追い上げに加えて、アベランジェとUEFA(欧州サッカー連盟)との政治抗争にも巻き込まれ、日本は韓国とのW杯共催を受け入れることを余儀なくされる。

「共催の提案は(96年)5月31日以前から耳にしていました。同じアジアの国同士が喧嘩をするのは良くないと、AFCの関係者も悩んでいました。アフリカ諸国の関係者は『共催を支持するように』と、UEFAからプレッシャーを受けていたようです。『言うことを聞かないなら、アフリカに指導者を送らない』とかね。ただ、われわれとしては『W杯は1つの国の国境の範囲内ですべての試合が行われる』という規約を遵守するほかなかった。でも結局は、ルールそのものが変えられてしまったんですね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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