連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
なでしこ長谷川唯に見る、澤との共通点 一つひとつ築いた高い場所への「階段」
目に焼き付けた、2011年のW杯制覇
20歳でなでしこジャパンに初招集された長谷川。自他ともに認める、卓越した戦術眼の持ち主だ 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
「中学1年生で(日テレ・)メニーナに加入した時にはもう、将来の目標はサッカー選手以外考えられませんでした。あの日も、なでしこジャパンのW杯初優勝を見届けながら、『私もそこへ行きたい』と本気で思っていました」
それから6年後の17年、長谷川はなでしこジャパンに初招集された。20歳になったばかりの彼女は、国際Aマッチ初先発となったアイスランド戦で2ゴールを挙げ、チームを勝利に導いた。長谷川は「頭を使ったプレーは得意」と自他ともに認める戦術眼の持ち主だ。
「パワフルな外国勢相手に正面に向き合って1対1の勝負をするのではなく、駆け引きをして相手の背中に回ってボールを引き出すとか、そういうポジショニングや運動量には自信があります」と本人も話す。以来、2シーズンで代表戦30試合に出場し4得点を奪った。19年のフランスW杯、そして20年の東京五輪に向かうなでしこジャパンに欠かせない戦力として、周囲の期待を集める新星となった。
同級生を追いかける立場だった中学時代
出身地の宮城県には幼少期までしかおらず、当時のことは全然覚えていないという。それでも「私の生まれたところ」という気持ちになると話す 【スポーツナビ】
「当時住んでいた家は、東北楽天ゴールデンイーグルスのスタジアム(楽天生命パーク)の近くにあった……らしいんですが、宮城で暮らしていた頃のことは全然覚えていないんです。なでしこリーグの試合で仙台に行った時、その近くを回ってみたけれど、何も思い出せませんでした。ただ、『宮城』と聞けば『私の生まれたところ』という気持ちにはなります」
サッカーを始めたのは埼玉に引っ越してから。兄の少年団の練習について行ってボールを蹴り始めた。「気がついた時にはサッカーが大好きになっていました」という彼女は、小学生になると男女のチームに掛け持ちで参加。中学からは名門の日テレ・メニーナに加入した。
「メニーナのチームメートには高校生もいて、それまで経験したことがないようなサッカーに、ついていくのがやっとでした。そんなレベルの中でも同級生の何人か(土光真代や籾木結花)は全国大会の遠征メンバーに選ばれて、私は居残り。悔しかったけれど、サッカーを嫌いにならずに頑張ろうという気持ちで練習に取り組みました」
以降も長谷川は同級生を追いかける立場にあった。メニーナを卒業して、日テレ・ベレーザ(なでしこリーグ1部)に選手登録されるのも、やはり土光、籾木に1年先を越された。
「すごく悔しかったです。でも、自分が壁にぶつかったという感覚はないんです。この時は高校1年生。自分が中心になってメニーナを引っ張らなくては、という責任感で毎日プレーしていました。指導者が求めるレベルも高く、私もみんなもよく怒られました。私は自分が怒られていない時も、監督の注意をよく聞くように心掛けました。そうやって、よく考えてプレーする習慣を身に付けたことが、今の自分に生きていると思います」