連載:僕らがセンシュケンから教わったこと

日比威「“帝京”の看板があったから…選手権の輝きは今も変わらない」

細江克弥
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帝京最後の日本一に導いたキャプテン日比威。現在は母校の監督を務める 【千葉格】

 もし、30代後半から40代のサッカーファンに「選手権の歴代ベストバウトは?」とアンケートを取ったなら、第70回大会(1991年度)の「帝京vs.四中工」はおそらく上位にランクインするだろう。

 松波正信と阿部敏之の2年生ユース代表コンビを擁する帝京(東京)と、“レフティモンスター”こと小倉隆史を筆頭に、中田一三、中西永輔の「三羽ガラス」が中核を担う四日市中央工(三重)。当代屈指のスター選手が集結したファイナルは、松波が2得点、小倉が1得点と役者の演出によって2−2のドロー決着。史上6度目の両校優勝で決着した。

 帝京のキャプテンは、背番号7を身にまとった日比威だった。

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帝京の伝統を理解せず、受け入れようとしなかった

――あれだけスター選手がそろった決勝戦で、1、2年生中心の帝京を引っ張る日比さんの存在感も強く印象に残りました。

 いやあ、もう、30年近くも昔のことですからね。もし覚えてくださっている人がいたら、それだけでありがたい。ただ、テレビを通じて感じていただいた印象と、実際の僕は少し違うかもしれません。あの大会でキャプテンマークを巻いていたのも、“たまたま”なんですよ。

――そうだったんですか? “いかにもキャプテン”という印象でした。

 普通は監督からの指名制なのですが、僕の学年だけは“持ち回り制”でした。ある時期に順番が回ってきた僕のタイミングで、たまたまチームの調子が良かったんですよね。そもそもレギュラーとして試合に出ていた3年生が数人しかいなかったので、そのまま最後までキャプテンを務めることになったんです。だから、おそらく僕に対する「いかにもキャプテン」というイメージは、あくまでメディアに作られたものなんですよ。

――なるほど。ところで、日比さんはどうして帝京に? 確か、読売クラブの出身ですよね。

 僕が子どもの頃の帝京は本当に強くて、サッカー少年なら誰もが憧れるすごい選手がたくさんいました。よく覚えているのは、前田治さんと平岡和徳さんがいて清水東(静岡)に勝って優勝した年(第62回/1983年度)。それから、岩井厚裕さんと鋤柄昌宏さんがいて島原商(長崎)との両校優勝となった年(第63回/1984年度)。しかも、選手権の決勝戦ともなれば日本リーグよりもお客さんが入る時代ですよね。テレビを見たサッカー少年はみんな選手権に憧れたし、僕自身もそのひとりでした。東京で生まれ育って、東京でサッカーをやっていたので、やっぱり帝京には特別な憧れを抱いた。あの2つの大会を見て「あそこで戦いたい」と思ったんです。

 とはいえ、進路に関してはいろいろと考えました。他の学校に行く選択肢もあったし、読売クラブでプレーし続ける選択肢もあった。もちろん、最終的には読売クラブとはまったく違うサッカーをやることを承知の上で、帝京を選びました。ただ……。実際に入ってみると納得できないことがたくさんありました。読売クラブはボールを大事に、小さなエリアでパスを何本もつなぐようなサッカーをする。一方の帝京は、“勝つこと”を最大の目標として相手より激しく、強く、より多く走るサッカーをする。サッカーの種類が大きく違ったので、かなり戸惑いました。今だから言えることですが、それにまつわる“事件”もあったんですよ。
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著者プロフィール

1979年生まれ、神奈川県藤沢市出身。『ワールドサッカーキング』『Jリーグサッカーキング』『ワールドサッカーグラフィック』編集部を経て2009年に独立。サッカーを中心にスポーツ全般にまつわる執筆、アスリートへのインタビュー、編集&企画構成などを手がける。

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