2014年 村井改革のはじまり<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

その後の改革は2014年から始まっていた

パフォーム社とファーストコンタクトは14年にまでさかのぼる。今後、Jリーグはどのような成長曲線を描くのか 【写真:つのだよしお/アフロ】

 実はJリーグとパフォーム社とのファーストコンタクトは、村井がチェアマンに就任した14年にまでさかのぼる。同社の日本担当者に村井が出会ったのは、アジア戦略の一環で訪れたミャンマーであった。「まだDAZNというブランド名がなかった頃に、初めてパフォーム社の人と現地でお会いしました。その時に『これからはネット配信の時代になる』みたいな話を聞いたことを覚えています」とは当人の弁。実は他にも、後のJリーグの重要な施策の萌芽を、この年の村井の動きから見て取ることができる。話の続きを聞こう。

「これからのJリーグを考えた時に、やはり経営者が肝になるということで、JHC(Jリーグヒューマンキャピタル)の構想を練っていたのが、この年でしたね。それからワールドカップ(W杯/ブラジル大会)の視察から戻って、妻と夏休みに北海道の根室を旅行したのですが、そこに明治安田生命の営業所があってびっくりしたんです。明治安田生命さんには、この年からJ3のスポンサーになっていただいていました。でも根室にまで営業所があるんだったら、もっと露出していただいたほうがいいだろうと、その時に思ったんですね」

 結果として翌15年にJHCは開校し、現在はSHC(スポーツヒューマンキャピタル)として優秀な人材を毎年輩出するに至っている。また、明治安田生命がJ3だけでなく、J1とJ2のタイトルパートナーとなったのも15年からだ。こうして見ると、村井がチェアマンとなった14年を起点として、Jリーグにさまざまな変化が起こったことがあらためて理解できよう。そんなトップを、広報部長の萩原はどう見ていたのだろうか。ここで彼がキーワードとして挙げたのが「壁打ち」である。

「村井さんはよく『壁打ち』という言葉を使うんですね。新しいことをやるわけだから、前例がない。そこで、自分からいろいろな人にボールを投げる。相手は知識人だったり、メディアの人だったり、僕みたいなぺーぺーにもです。そこで返ってきたものから、自分の考えをブラッシュアップしていくんですね。僕自身、どれだけ壁打ちの相手になれているか。全然なれていないと思います。ただ、思考する努力を怠ってはいけないというのは、一緒に仕事をしている中でずっと心掛けていることです。それが村井さんと出会って、僕が一番学んだことでしたね」

 村井がチェアマンに就任して4年。この間にJリーグは、組織も人も大きな変革を求められてきた。そして、就任当初に懸念された財政基盤の問題も、劇的に改善された。それでも、改革の流れは今後も変わることはないだろう。就任から2度目のW杯が終わった今、Jリーグは今後どのような成長曲線を描いていくのか、関心は尽きない。

<この稿、了。文中敬称略>

2/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント