2003年 W杯というレガシー<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

プロクラブの誕生とスタジアム完成のインパクト

W杯を前年に控えた01年に開場した「ビッグスワン」こと新潟スタジアム 【写真:アフロスポーツ】

 アルビレックス新潟の前身は、当時北信越リーグに所属していた新潟イレブンサッカークラブである。ワールドカップ(W杯)招致活動の一環として、県協会主導による強化がスタートしたのは1995年であった(チーム名も「アルビレオ新潟FC」に改称)。とはいえ、当初はあくまでも任意団体。オランダ人の初代監督、フランツ・ファン・バルコムの招へいも、池田の計らいで「NSGの英語教師」としてビザが発給されている。運営会社が設立されたのは96年で、この時に池田が初代代表取締役に就任。併せて、クラブ名も現在のものとなった。98年に旧JFLに昇格、そして翌99年には開幕したJ2の「オリジナル10」に名を連ねている。

 もっとも、W杯招致を契機に起こった「わが街にJクラブを」という動きに対して、新潟の人々が当初から熱狂的に受け入れたという形跡は見られない。むしろ冷淡であったとさえ言えよう。前出の浅妻信が、関西の大学を卒業して地元に戻ってきたのが97年。黎明(れいめい)期のクラブをめぐる状況をこう振り返る。

「もともと新潟はサッカーに限らず、スポーツが弱かったんですよね。高校野球も含めて、スポーツニュースで『新潟』が出てくることはまずなかった。それが地元にプロサッカークラブができて、メディアにも報道されるようになったのには感動しましたね。ただ、新潟市陸(陸上競技場)でのJ2の試合を見に行きましたけど、開幕戦を除けば(入場者数は)3000人から4000人の間くらい。『とりあえず見に行こうか』というお客さんがほとんどで、応援も決して熱狂的ではなかったですね」

「ビッグスワン」こと新潟スタジアムが完成したのは、W杯を前年に控えた01年のこと。そのこけら落としは5月19日に行われた、京都パープルサンガ(当時)を迎えてのJ2リーグ戦で、入場者数は3万1964人と記録されている。新潟のスタジアムDJを務める森下英矢は、たまたま観客としてこの試合に訪れていた。

「お客さんの数にも驚きましたが、そもそもあれだけ巨大なスタジアムというのは、それまでの感覚だと東京に行かないと見られないものだと思っていました。それこそ『夏休みにお父さんが東京ドームに連れて行ってくれました』みたいな(笑)。それが地元に完成したというインパクトはすごかったです。実は僕のビッグスワンでの(DJ)デビューは、11月(3日)の同じく京都戦だったんですけれど、あの時も4万人以上入りましたね(4万2011人)。新潟市陸とはまったく違う雰囲気でしたので、ものすごく緊張しました」

新潟の集客を促した無料チケットと勝手連の活動

02年W杯では、イングランド代表のベッカムが新潟でプレーした 【写真:アフロスポーツ】

 翌02年のW杯は、グループリーグのアイルランド対カメルーンとクロアチア対メキシコ、ラウンド16のデンマーク対イングランドが新潟で行われ、それぞれ3万3679人、3万2239人、4万582人もの観客を集めた。当時、人気絶頂だったデイビッド・ベッカムが属するイングランドが試合を行ったこともあり、かつての「サッカー不毛の地」は大いに盛り上がることとなった。とはいえ祭典が終われば、待っているのは日常である。ビッグスワンという大きな箱ができたことで、01年の平均入場者数は前年の4倍にあたる1万6659人に跳ね上がった。しかし、収容率は半分にも満たない。打開策として池田が断行したのは、無料チケットの配布。ただし、「むやみにばら撒いたわけではないですよ」と当人は念を押す。

「まず、自治体の人たちを仲間に引き入れるために、無料チケットを渡しました。それから夏休みに入った子供たち。子供にタダ券を配って、引率する先生や親御さんは半額にする。あとは地域ごとに、順番を決めて配るようにしましたね。だいたい(ホームゲーム)5試合に1試合がタダで見られるような感じで。そうやって、できるだけ満員に近い状況を作ることで、そこで得られる高揚感というものを知ってほしかった。サッカーのルールを知らない人たちには、むしろそっちの方が重要だと思ったわけです」

 一方で注目すべきは、浅妻を中心とする当時のサポーターが、自主的に集客アップに貢献していたことである。その活動は実にユニーク。ホームゲーム当日、ある時はバーベキューを開催し、ある時はカレーを振る舞いながら仲間を増やしていった。当人いわく「とにかく若くて元気な仲間が欲しかったんですよ」。そうした活動は、クラブや行政の許可を取らない、文字通りの「勝手連」だったという。「役所に許可をお願いしても、はねることが彼らの仕事なので(笑)。黙ってやれば、見て見ぬふりをしてくれました」と浅妻。冒頭で紹介したCDの作成も、そうした勝手連としての活動の一環であった。

「CDに関しては、他のクラブのサポーターが手作りした作品を聴いて『オレだったら、もうちょっとカッコいいのが作れるな』という思いがきっかけでした。ただし、著作権のクリアの仕方がよく分からない。とりあえず(レコード会社の)法務部に電話して、『この曲をこんなふうにアレンジしたいんです』って説明してから電話口で歌うとか(笑)。そんなことを1人でやっていました。それがちょうど2002年の6月くらいで、はっきり言ってW杯そっちのけでしたね(笑)」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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