福永祐一がダービーを勝てた3つの理由 キングヘイローから20年、全ては必然に
福永祐一、涙のダービー制覇……その裏には3つの理由があった 【写真:有田徹】
20年前の検量室、顔面蒼白になった美少年がいた
「最後はもう気合。周りを見ないように、無我夢中でした。いまの気持ちをうまく表現できませんが、やっぱりダービーは特別でした」
すべては、この瞬間のために。その顔は達成感に満ちていた。
いつだって、検量室には悲喜こもごものドラマが詰まっている。振り返ると、1998年日本ダービーのこの場所には顔面蒼白になった美少年がいた。彼がコンビを組んだのはキングヘイロー。父は凱旋門賞を鬼脚でぶっこ抜き、80年代世界最強といわれたダンシングブレーヴ。母は米7冠の歴史的名牝グッバイヘイローという超のつく良血という点も人気に拍車をかけた。
1998年の牡馬クラシック、デビュー3年目の21歳・福永は素質馬キングヘイローとのコンビで皐月賞2着(写真右)、ダービーも大きな期待を集めていた 【写真は共同】
しかし、レースでは前後不覚に陥った。初めて体験するダービーの重みと高揚感。21歳の福永は初陣に臨む若武者のように舞い上がり、図らずも1コーナーで先頭へ。デビュー以来逃げたことのないパートナーにもはやる気持ちが伝わった。
あるファンは期待した。「これが洋一譲りのマジックだ」と。しかし、直線入り口でそれがはかない願望だったことに気づく。「頭が真っ白になった」「なぜかスタートして仕掛けてしまった」「直線は穴があったら入りたい気持ちだった」。最後はバタバタになり、勝ち馬から2秒6も離され14着惨敗。「デビュー間もないころ、あんな有力馬に騎乗させてもらい、緊張感に飲み込まれる経験をしたのもダービーでした」と41歳となった福永は振り返った。
このとき、勝ったのがスペシャルウィークだった。29歳の武豊にとっては記念すべき日本ダービー初制覇となり、その後前人未到のダービー5勝というキャリアにつなげていく。
ダービーへ集中、ナーバスではなく自然体
「正直もう勝てないんじゃないか。調教師になって勝つしかないかなと思ったほど」
しかし、これらすべてが肥やしになり、機は熟していった。では、いままでとどこが違ったのか。今回大きかったのは報道が過熱しなかったことが挙げられる。記者クラブとJRAが用意する3枠のGI代表会見はダノンプレミアム、エポカドーロ、サンリヴァル陣営。皐月賞1番人気のワグネリアン関係者はお役御免となった。
例年だと福永自身もサービス精神を発揮し、テレビや雑誌などに積極的に露出していたが、今年はあえて自重していた。テレビ関係者も「今年の福永さんは違う」と早くから出演を断られ、半ば嘆き気味。この点を本人に尋ねると「ちょうど、その時期にもうひとり生まれるから」と話していたが、日本ダービーへ集中した気持ちがひしひしと伝わってきた。とはいえ、ナーバスになっていたのではなく自然体だった。