自信と悔しさを経験した2017年 走幅跳・橋岡優輝インタビュー
「ダイヤモンドアスリート」第4期の選手である走幅跳の橋岡優輝にインタビュー 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
すでに3期が終了し、これまで9人が修了。昨年11月からは継続・新規含め全11人が認定され、第4期がスタートした。今回は第4期となる「17−18認定アスリート」へのインタビューを行い、走幅跳の橋岡優輝(日本大)に話を聞いた。
取材・構成:児玉育美(JAAFメディアチーム)
中学時代は四種競技に取り組んでいた
始めたのは中学1年からです。部活に入らなければいけない中学で、両親が陸上をやっていた(※父・利行さん:棒高跳元日本記録保持者、母・直美さん、旧姓・城島:100mH・三段跳元日本記録保持者)のは知っていたので、「自分もやってみようかな」と興味本位で始めました。
――それまでは、いろいろなスポーツをやっていたそうですね。
サッカーや野球などです。ただ、「スポーツ」というよりは「遊び」感覚でしたね。
――中学1年のときは、100メートルに取り組んでいて、その後は四種競技を含め、いろいろな種目に取り組んでいたそうですね。
1年のときは100メートルだけをやっていました。2年になったときに顧問の先生が変わり、そのころハードルをやってみたいと取り組み始めていたのですが、先生から「ハードルの練習として四種に出ては」と言われたことがきっかけで四種競技もやるようになりました。言われたときは「それって、逆じゃないのかな?」とも思いましたが、今思うと、当時、僕があまり部活に出ていたわけではなかったので、四種をやることでバランスよく体力を高めようとしたのかもしれません。その年の秋の新人大会で3位になって、そこからは四種競技主体でやるようになっていきました。
――中学3年の春先に標準記録を突破し、全日中へ出場されたわけですね。初めての全国大会はどうでしたか?
楽しかったです。今もそうですが、自分は昔からあまり緊張しないタイプなので、全く緊張することもなく、ただ、楽しみました。
――3位という結果でしたが「優勝を狙う」という感じではなかったのですか?
勝ちを意識するほど練習をしていなかったので(笑)。「楽しんでやっていたら、3番になった」という感覚のほうが強かったですね。
――陸上を続けていこうと思ったのは、そのあたりから?
そうですね。全日中で入賞したのをきっかけに、「高校でもやっていきたいな」と思い、進学先を考えるようになりました。
走幅跳の面白さを知った高校時代
もともと走幅跳がやりたくて、跳躍種目が大好きで、跳ぶのが大好きという感じだったからです。中学では走高跳をやっていたのですが、母が走幅跳をやっていたこともあり、もともと興味がありました。試合には出ていないのですが、練習では少しやったこともあります。それで高校では、本格的に取り組んでみたいなと。(叔母の夫である)渡邉先生との関係もあったので、「なら、八王子高校へ」という形になりました。
――高校1年のときは、その走幅跳に馴染んでいくのに苦労したと聞きました。
かなり苦労しました。先生に「こういう感覚で跳ぶんだよ」と言われることが全然できなかったです。先生の言っていることを理解できているのだけど、身体がついてこないというか。たまに、まぐれみたいにできるけれど、もう1回やると全然できないという感じで、最初はすごく苦労しましたね。
――できるようになったのは、いつぐらいからですか?
高1の冬季練習あたりからです。走力が上がってきて、少しずつ歯車がかみ合い始めたというか、徐々に感覚というのが分かってきました。
――そして2年生になって、好記録が出るようになりました。
一番楽しかった時期だったと思います。
――秋の日本ユース選手権(現U18日本選手権)では、高2歴代3位タイとなる7メートル70をマークしています。それまでの自分の跳躍と、何か違いはありましたか?
全然違いました。本当に調子がよくて、1本目から7メートル50オーバーをポンポン跳べたので。感覚的に「あ、こういうのが走幅跳なんだな。走幅跳って、こう跳ぶんだ」というのが分かったような気がしました。
――高校最後のシーズンは、目標に掲げていた8メートル台とはなりませんでしたが、インターハイでは向かい風1.6メートルの中で7メートル75の自己新記録をマーク。安定して7メートル50台を跳んでいる印象を受けました。
記録的には満足いかなかったのですが、高校3冠(インターハイ、国体、日本ジュニア選手権優勝)も達成できたので、結果としてよかったのではないかと思います。ただ、「ちょっと8(メートル)にとらわれすぎたな」というのが反省点です。特に、試合数が残り少なくなってきた秋の国体や日本ジュニア(現U20日本選手権)は思いきって跳ぼうと臨んでいたつもりでしたが、頭の片隅に「8」への意識があったように思います。そういう部分で、自分らしく行ききれてなかったなと思いますね。